死がもたらす平衡
今年三十歳を迎えた池田吾郎は、昨年結婚した妻の良枝とともに、郊外の賃貸マンションに引っ越してきてから、そろそろ一年が経とうとしている。新婚でこのマンションに入ったのだから、引っ越し二年目に突入が、そのまま結婚一周年ということになる。
吾郎の方は、結婚一周年などという意識はほとんどなかったが、妻の良枝の方が、節目節目をしっかり覚えていて、一周年をどうやって祝おうかと、虎視眈々計画していた。
良枝はこういうことには神経を使うが、それが一つの楽しみであった。子供ができるまでは共稼ぎがいいというのは、お互いに共通した意見で、結婚二、三年は新婚気分を味わいたいというのも、共通していた。お互いに趣味や楽しみに詮索しないやり方は自由でいいのだが、節目のイベントに関しては、双方で考え方が微妙に違った。
どちらかというと神経質なところがある良枝に比べ、まったく無頓着な吾郎は、こういうことでは、良枝に頭が上がらない。嫌いなわけではないのに、ただ面倒臭がり屋なだけなので、良枝さえしっかりしていれば、いいことだった。
良枝はサプライズを考えて、会社の帰りに今までは直接帰って、ゆっくりと夕食の準備を進めていたのだが、最近では、帰りに百貨店や、グッズの店などに寄り、サプライズに必要なものを物色していた。
地味な性格の吾郎だが、良枝に逆らうことのない性格を考えれば、少々のサプライズは、却って刺激があったいいかも知れない。
最近は、仕事で遅くなることの多い吾郎なので、良枝も寄り道をして帰っても、夕食の準備はゆっくりとできる。怪しまれることもなく、水面下で組み立てることができるのだ。
良枝は、サプライズを考えてほくそ笑んでいるような自分が好きだった。誰かのために一生懸命になることは、楽しいことだ。それが新婚の夫であるならば、なおさらのこと、あまりにも地味な時があるので、少し考えさせられることもあったが、落ち着いた性格の人間に間違いはないということで、結婚したことを今さらながらに幸運に思い、時々気が付けば一人でほくそ笑んでいるのに気が付き、顔が真っ赤になるのだった。
吾郎の会社は、家から十五分の駅から電車に乗って、約三十分の駅に降り、そこから五分という、会社の立地条件としては、一等地に事務所を構えていた。
それだけに、さほど大きな事務所ではない。雑居ビルの一室にあるのだが、十人分も机が入ればぎっしりで、良枝が最初に入った時は、狭さに少しビックリさせられた。
「まあ、駅から近いという便宜さを考えれば、これで十分さ」
と、吾郎は言っていたが、完全に納得しているわけではなさそうだった。
会社まで近い分、駅から家までの十五分というのは、さほど遠くないはずなのに、実際に歩いてみると、遠く感じる。さすがに都会からであれば、電車の三十分は、住宅街と言っても、田舎の佇まいの残るところである。
徒歩十五分は、最初に住居を探した時の、距離ギリギリであった。電車で三十分は仕方がないとしても、徒歩は十分以内を探したが、どれも埋まっているか、築年数が古すぎて、新居には似合わなかった。
良枝の勤め先は、同じように電車に乗っても、二駅ほどなので、さほど遠くは感じないが、さすがに三十分乗っていると、疲れが残らないのも、ウソだろう。
それでも、吾郎の会社の上司は、もっと遠くから通ってきている人もいる。ただ、そんな人は一戸建てだったり、分譲マンションだったりと、完全に住まいのランクが違っていた。
「しょうがないか」
良枝と二人で、何度口にした言葉だろう。会社や仕事のことを愚痴ることのない吾郎だが、通勤に関しては、どうしても愚痴ってしまうようだった。マンションもそれほど人が埋まっていないので、
「面倒な近所付き合いをする必要もない分、気が楽だわ」
と、良枝は言っていたが、本心からのことだろう。
良枝は優しい性格だった。
「人から好かれる性格というのは、君のようなことを言うのかも知れないな」
めったに人を褒めることのない吾郎が、良枝に対して感心していることだった。近所づきあいする必要がないと言葉では言っているが、もし近所づきあいする必要に迫られても、吾郎はまったく心配していない。それは良枝の性格があるからだ。優しく見えるのは、明るくて、順応性があるからなのかも知れない。優しいという言葉は、それだけ漠然とした表現なのであろう。
吾郎も、良枝と知り合わなければ、自分でどうなっていたかと思うと少し、ゾッとすることがあった。自分ではそんなつもりはなかったが、なぜか、女性が寄ってくることが多かったのである。
吾郎と良枝が知り合ったのは、大学の頃だった。
吾郎は、文芸サークルで、小説などを書くことが好きだったが、良枝は、演劇サークルで、シナリオを書く方だった。演劇自体を自分で演じることには興味はないといつも言っていたが、当時の部長から、
「君だったら、十分役者としても面白いと思うんだけどな。おしいな」
と言っていた。
吾郎には、そこまで演劇について分からなかったが、同じ演劇部の人たちも部長と同じ意見らしく、それだけでも、演劇としての彼女の存在は一目置かれるところがあるのだと感じていた。
吾郎の書いている小説は、ほとんどがミステリーで、あまり大げさなものが書けないこともあり、内容は一般夫婦内の殺人のようなものが多い。会社や大家族のような登場人物がたくさん出てくるような話を書くことはなかった。これも彼の性格を反映しているのか、殺人を描くというより、簡単なトリックを考えて、まるでゲーム感覚で描くだけだった。彼には、人間のドロドロとした部分は、到底書けるはずもなかった。
「小説を書くには、あまりにも経験不足かも知れない」
そう思うことが、本格的なミステリーを書けない一番の原因だった。トリックやストーリー性以前の問題だったのだ。
だが、そんな小説でも理解者がいた。それが、演劇部でシナリオを書いていた良枝だったのだ。
良枝も演劇部でシナリオを書いているからと言って、プロになりたいという大きな夢を持っているわけではなかった。時々、ラジオなどのシナリオコンクールに応募することはあったが、いつも落選。自分の作品が、学校以外の場所で日の目を見ることなどないと思っていたのだ。
シナリオを書く上での性格が、そのまま表に出ているので、役者として表舞台に立つなど、考えられない。シナリオを書くことが好きなだけで、演じることへの楽しみを感じることはなかったのだ。
吾郎は、良枝にすら、最初自分の作品を見せるのを拒んだほどだった。良枝が見たがっていたのは、サークルから発表される機関誌に載せている作品以外の、吾郎の作品だったのだ。
「そんなに大した作品は書いていませんよ」
「そんなこと言わないで見せてくださいよ。私もシナリオを書く参考にさせてもらいたいんですよ」
それが、吾郎と良枝の出会いだった。
吾郎も良枝には作品を見せるようになり、良枝も、褒めてばかりではいけないと、辛口批評ではあるが、あまり傷つけないように気を付けながら批評をした。