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洋舞奇譚~204号室の女~

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二か月ほどたったある日、母上が午後の外来が終わった泰子のところに顔をだした。病棟の先生には会わないですけど、先生には報告をと思って、と。病気が発覚してから、6か月、ひどい嵐のようで、まだ現実感がないです。でも、だいたい終わりましたの。泰子先生は、いつも回診してくださって、そうじゃないときだって、寄ってくださって、音楽やバレエのことを話すことができて、あの子、楽しかったそうです。チャイコフスキーのこと、いろいろお聞きして、オディールをもっと深く踊らなきゃいけないんだわって、フォーレって誰だか知らなかったけど、ジュエルズの音楽のことも、たくさんお話していただいて、分かったことがあるのよ、元気になったらまたエメラルドを踊りたいと言っていたんですよ。点滴の処置が長かった時に、気にした先生が、来てくれて、何か音楽でもって言って、ドン・キホーテをかけてくれた、フェッテの数を数えていたら処置が終わってたの、助かったって言っていたんです。データじゃなくて、肌の調子を聞いてくれたのは先生だけでした。とにかく、お礼をいいたかったのです。でも、先生は頑張りすぎないでね。幸せでいてください。バレエは7歳でやめてしまった、そうですけど、ぜひまたなさって。もしパキータを踊ったら、あの子を思い出してあげてくださいね。

泰子の仕事は、公式には大学の教員であった。基本的には学生の教育が仕事のはずだが、医学部の場合は、診療業務、研究業務も要求される。しかし、給料は普通の大学教員と同じ。しかし、教員としての業務が多いと、医師としての研鑽が不足する。したがって、医学部の教員は他の病院でも仕事をしたりすることが多い。特に若手は人手不足の病院で当直業務をしたり、医局派遣で赴任して、地域医療を支えたりもしてきた。いまでこそ、働き方改革などといわれているし、研修医にも給与がでているが、泰子の時代には研修医は無給だった。すべての収入はこれらの外勤といわれる仕事で稼いでいたのだ。この国の医療が抱える抜本的な構造問題である。逆説的には、外勤でどれだけたくさん稼ごうとも文句を言われる筋合いはないわけであるが。確かに24歳の時、すでに年収は上場企業の会社役員よりも多かったが。
泰子は比較的学生の教育に熱心であった。話がうまく、美人であるから、学生にも人気があり、教授の手伝いで学年の副担任などをしていた。泰子の職場は単科医科大学であるが、名門東都大がすぐ近くにあり、学生同士、教員同士の交流が多く、特に食堂は東都大のほうが格段によかったので、泰子は遅くなったときは頻繁ににランチに行っていた。
その女性をはじめて見かけたのは、東都大の学食だった。ほっそりとして背が高い女性は、黒縁のメガネをかけ、髪の毛を後ろでゴムで束ねていて、実験用の白衣を着て、スニーカーに紺のポロシャツと綿の膝丈スカート。ひとりで、カレーを食べていた。地味だから、目に留まったわけではない。お茶サーバーの前で、泰子と東都大の準教授が立ち話をしながら振り返ったときに、彼女とぶつかりそうになってしまったのだ。一回転してよけて、ごめんなさいね、と言って立ち去り、泰子はまったく気にも留めていなかった。このとき、泰子は准教授から工学部の教授兼副学長を紹介されており、共同研究者であった医科研の感染遺伝学の教授と4人でテーブルに着いており、東都大では見かけないようなセンス抜群の美女であったからちょっとした人だかりになっていたのである。研究者を何人か紹介され、泰子はカルティエのカード入れから名刺を出して渡していた。泰子はいつも人に囲まれるので、意識したことはなかったが、目立つ存在だった。

泰子は、大学のサークルにもまた顔を出すようになり、ピアノを熱心にやるようになっていた。近所で教えてくれる先生を探していたところ、病院から10分ぐらいのところで個人の若い先生、絵里先生をみつけた。神戸から結婚して引っ越してきたという人で、大学院時代に留学もしていて、少しアカデミックなことも話せて、なにより演奏が魅力的だったので、2週間ごとぐらいに通うことにした。
動かなかった指もだいぶ回るようになっていた。地道にチェルニーとバッハを続けたおかげだろうか。何を弾きたいですか、ということで、持ち出したのは、ショパンのノクターン集。高校生のころ、子供が弾いてもつまらないと、弾かなかった曲たち。そしてバッハ。ゴルトベルグ変奏曲。1時間のレッスンだったので、エチュードは見てもらう暇がない。最初の音の出し方だけで1時間が終わることもある、そんな先生だったが、何百回も言われた、どんな音色を出したいのですか、は、その後の泰子の演奏を支える骨組みになった。ショパンのノクターンを全部弾きたいのです、という無理難題をしぶしぶ面倒見てくれた先生だった。
新婚さんだった絵里先生は、東京ではあまりご友人がいなかったようだった。音楽以外のこともいろいろ話をしていると、とても繊細な感性を持つひとだった。音色というものの大切さ、表現したいことをはっきりと持つこと、そんなことを繰り返し話してくれた。
だんなさんは出版社勤務で残業が多く、お一人の時間が長いようだった。お子さんがほしかったということで、いわゆる妊活をはじめた。そのころから、少し精神的に不安定になることが多くなった。泰子の周りにはあまり子育てをしている友達がいないので、少々とまどった。
泰子は、恐ろしく多忙なのである。休日といえる日は1ヶ月に2日ぐらいしかない。ピアノを触れる時間など、1週間に数時間しかない。そのなかで練習を、というのはなかなか無理が多いのだ。そのあたりのことは、絵里先生にはわからなかったかもしれない。絵里先生は、一度流産をされて、さらに不安定になってしまった。ホルモン治療などの影響があったのだろうと思う。
少々息苦しくなった泰子は、社会人音楽サークルを探して出入りするようになった。サークルは数あるのだが、メンバー募集をしているところは案外少ない。活動場所や時間が合わなかったり、で、結局3つぐらいは顔を出してみた。1箇所はオンディーヌ、できたばかりのサークルで、女性管理人と仲良くなったり、同じような演奏レベルの友人や、同じようにバリバリ仕事をしているピアノ弾きの友人を作ることができた。先生を変えようかな、と思ったのはそのころ。ちょうどよく、というのは難があるが、絵里先生は妊娠された。レッスンは続けたいようであったが、体調次第でお休みになることが多くなり、いったん休止にしましょうということになった。