短編集52(過去作品)
完璧な自分
完璧な自分
仕事に出かける前、どうして女性はこれほど時間を使うのだろう。あまり化粧に時間を掛けることを嫌う美紀は、いつもそれを考えていた。
――無駄な時間を使いたくない――
と考えるのは美紀だけではないだろう。
もちろん、美紀も化粧をしないわけではない。しかし、それも必要最小限にとどめている。どこまでが必要最小限なのか分からないが、美紀にとって、化粧はそれほど重要なことではないのは確かだった。
かといって、朝ギリギリまで寝ていたいからというわけではない。朝はどちらかというと早めに起きる方だろう。
目覚めがあまりよくない。目を覚まして十分ほどは、ベッドから起きることができず、ボーっとしている。天井を眺めているのだが、目はハッキリと見えているのに、身体を起こすことができないのだ。
天井を見ていると遠近感が取れなくなる。幾何学模様の天井なので、それも仕方のないことだが、身体を起こせないのは、むしろ遠近感が取れないからなのかも知れない。錯覚によるものに違いないが、完全に目を覚ますことができないのだ。
身体が起きてくると、目も完全に覚めている。洗面所での時間もそれほど掛からずに、朝食の用意ができる。
コーヒーと、パンの焼ける香ばしさが、朝の香りだった。美紀が一番好きな香りの一つでもある。生活観が滲み出ているが、朝の香りはやはりコーヒーとパンの焼ける香りである。
パンは焦げ目がつくほど焼かないと気がすまない。中途半端な焼き方ではなく、噛んだ時に感じる感触が柔らかいのは、納得いかなかった。どちらかというと、美紀はこだわりを持っている。ゲンを担いだりする方で、ベッドから起きる時に踏み出す足も右足からと決めていた。
最初は柔らかいパンでもよかったが、固いパンにバターを塗って食べるおいしさを覚えてしまったら、他の味に納得がいかなくなってしまったのだ。
一つのことを、
――いいことだ――
と思い込んでしまうと、他の発想がなかなか浮かばない。美紀だけに限ったことではないのだろうが、どうしても、自分だけだと思ってしまう。自分だけだと思ってしまうと、知らず知らずに内に篭ってしまうであろうことは分かっていた。
美紀が朝、ゆっくりするのは、学生の頃からの習慣であった。女子大の頃から一人暮らしで、朝は比較的ゆっくりしていた。夜更かしをするというわけでもなく、自分としては普通の生活だと思っていた。
友達もそれほど多くなく、大人しい方だったであろう。大人しい女性ほど気が強く見られるようで、一人でいることが多かったが、まわりからそれほど気にされる雰囲気でもなかったようだ。
確かに気が強い方だとは思っているが、一人でいると時々寂しくなることもある。無性に寂しくなることもあれば、一人でいることの気楽さで、自分をごまかしていることもある。
その時々で違っていたが、学生時代には言い知れぬ不安があった。言い知れぬというのは漠然としているという意味で、その不安がどれほどの大きさか自分では分からなかった。
社会人になると、少しずつ不安の奥が見えてくるようになる。今まで漠然としてきたものが見えてくると、少しだけ安心してくる。一人でいる時間が増えてくるのもそのせいであろう。
一人でいる時間は大学の頃の方が懐かしく感じる。不安であったが、人と一緒にいれば安心できたからだ。
友達の不安も分かるからだった。陽気に話していても、言葉の端々に不安が見えている。しかも皆同い年で、上下関係などないからだ。
――初めから分かっていること――
学生が平等なのは分かっている。いくら試験があって成績の上下があっても、実際の上下関係など存在しない。だが、それでもさすがに就職活動の時には、その違いを思い知らされた。
元々成績がいい方ではない。
要領と、友達の輪が大学の成績に影響することは分かっていた。分かっていて敢えて利用しなかったのは、納得のいかないことをしたくなかったからだ。
自分だけの実力を試したかった。大学というところがそういうところであってほしいという自分の願望でもある。
それでも大学は甘くはなかった。成績は思ったほど伸びず、適当にやっている友達の方が、明らかに成績が上だったのだ。
だが、自分で選んだ道だという強い思いと、現実とのギャップは思ったよりも美紀を考えさせた。
その思いは大学時代のトラウマになってしまった。なるべく表に出さないようにしたいと思っているが、そう思えば思うほど、忘れられるものではない。
特に卒業してからも、就職活動の夢をよく見るようになった。学生時代のキャンパスを歩いている夢、だが自分が社会人であるという意識を持った夢であった。
矛盾している夢であるが、夢というのはそんなもの。考えてみれば矛盾だからこそ夢だという意識もあるのだ。
大学時代から社会人になって一番変わったのは、漠然とした不安が少し和らいだことであろう。不安自体、あやふやなもので、なくなってしまえば、それまで何に不安だったのかすら忘れてしまう。それだけに、大学時代への思い出に不安はなくなり、大学時代が聖なる時期だったという意識だけが残るのだ。
だが、実際に忘れたわけではないので、思い出すために夢を見る。見た夢はその時だけのもので、我に返る時であった。
大学時代はもう少し目覚めがよかった。夢を見ることもそれほどなかったはずなのに、考えてみれば夢を見るようになったのは社会人になってから、それも大学の頃の夢が覆いというのも奇妙なものである。
会社に出かけるまでに一番嫌なのは満員電車だった。
満員電車に乗るようになったのは社会人になってから、学生時代は学校が田舎にあったので、都会に出る時は遊びに行く時だけだった。
遊びに行くといってもほとんどがショッピングで、夕方になると帰る。友達の中には、
「一緒に呑みに行こう」
と誘ってくれる人もいたけれど、
「ごめんなさない」
と言って帰っていた。
門限があった。早く帰らなければ親から怒られた。怒られること自体よりも、怒られることで自己嫌悪に陥る自分が嫌だった。自己催眠に掛かりやすい美紀は、あまりまわりを刺激したくなかったのだ。
だが呑むことが嫌いだったわけではなく、呑む時は家の近くでと決めていただけなのだ。今でも夜になると時々出かけるが、それを知っている人はあまりいない。
社会人になって初めて乗った満員電車、新入社員としてはつらつな気分で、真新しいビジネススーツを着こなして、颯爽と出かけたあの日、話には聞いていたが、まさか自分がそんな目に遭うなど、思ってもみなかった。
隣の駅で急行電車に乗り換えられる。会社までは結構距離があるので、急行電車にでも乗り換えなければ、時間が掛かるのである。美紀の住んでいる街から都会というと、それほどたくさんあるわけではない。そのため、各駅停車に乗ってきた人たちはほとんどが急行電車に乗り換えることになる。
ホームにはたくさんの人が二列で礼儀正しく並んでいた。美紀は満員電車に乗ったことはなかったが、あまり先頭に並ぶと中に押し込まれるのが分かっていたので、後方に並ぶことにした。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次