夢幻圓喬三七日
「それほど具体的に話したわけではないし、社外秘の部分もあるから詳しくは言えないけど、園児たちが食事を自分たちの手で作って、他の園児に食べてもらうの。それなりの調理器具や、食材の一次加工なんかはうちの会社で手配出来るしね。簡単に言うと一手間掛けた食事作りってとこかな。それだと宅食に広げたときに、お客様に楽しんでもらえるんじゃないかと」
なるほどな。文字通り餅は餅屋だ。大将が海苔の焙炉(ほいろ)とお酒を持ってきてくれた
「もう仕事は終りでしょ。二人で先にやってなよ。店は夕方まで閉めたからのんびりしなよ。海苔はいただいたサンプルだからお代はいいよ」
「どうもすみませ〜ん。こんど柴田さんの最後の落語会があるのを御存じですか〜?」
美代ちゃんが場所と時間を伝えると大将は僕を睨んだ
「なんでそんな大事なことを教えてくれなかったんだよ。海苔代を倍額取るぞ!」
いや、いや、僕もついさっき聞いたところです。美代ちゃんがニヤニヤ笑って
「他の方も誘ってきて下さいね〜。柴田さんは、二階のお二人にも出でもらおうかって言ってましたよ〜」
「そりゃいいね。あの二人も励みになるだろうよ。うちのお客さんなんかには俺から声を掛けるよ。師匠は何を演るか言ってなかったかい?」
「まだ聞いていませんが、気合いは入っているようですよ」
「そりゃあそうだろう。日本での最後の落語会なんだからな。茶金に三味線栗毛だろ、それに鰍沢とたらちねと侍の素見……」
大将は指を折りながら聴いた演目を数えている。
「おまえさんはその他に福禄寿と大喜利を聴いているんだよな」
僕に向かって羨ましそうにしている。
「大阪で狂歌家主も聴きましたよ。よかったですよ」
僕の言葉に大将は更に羨ましがった。
「あと河井君のマンションでも聴いたじゃない。強情とかいうやつ」
美代ちゃんも追い打ちをかけている。
「なんだい強情って? どんな噺だよ」
「朝太さんに聴かせているのを隣の部屋で聴いていただけですけど、七人の会話だけなんで、とんでもなく難しい噺だって、朝太さんは言ってましたよ」
「ちきしょう、聴いてみたいなぁ」
「朝太さんに稽古してたんで、来月の余一会で聴けるかもしれませんね」
「あいつがそんなに難しい噺が出来ると思ってるのかい?」
「それなりには出来るんじゃないんですか。今も二階で一生懸命稽古してるし……」
「それが、さっきカアちゃんがコッソリ聞きに行ったんだが、『いろは』しか聞こえないって言ってたぞ。そんな稽古があるのかい?」
師匠が考えた稽古法を簡単に説明していると、美代ちゃんが割り込んできた。
「明日は移動時間が長いから、柴田さん車の中で何か落語してくれるかな〜」
「おい! なんだよそりゃ。俺に内緒でまた師匠の噺を聴くのかよ」
違いますよ。僕は大将に幼稚園のことを、これまた簡単に説明する。
「そうなのか、何があったのかは聞かないが、師匠は入れ込んでるんだな。俺に出来ることがあったらいってくれよな。もっとも蕎麦を拵えることぐらいしかできないけどな」
「あっ、それいいかもしれませんね〜。蕎麦とかうどんとか丼物なんかもありますものね。それに、この海苔の入れ物なんかも素敵ですよね」
美代ちゃんは仕事モードになって焙炉を指差している。
稽古が済んで師匠をはじめみんな満足そうに二階から降りてくると、大将が真っ先に声をかけた。
「最後の落語会のこと聞いたよ。二人も出るんだろ」
朝太さんと若朝さん二人とも、きょとんとしている。
「まだ、お二人にはお願いしてなかったね」
師匠はそう言って、来週の落語会のことを二人に伝えると、二人同時に顔を輝かせた。
「でも、もう柴田さんの後に高座に上がるのはいやですよ。僕が先に演りますから」
朝太さんはトラウマになっているようだが、大将にメニューで頭を叩かれた。
「当たり前(めえ)だろ。いつからそんなに偉くなったんだよ!」
「お〜江戸弁や」
若朝さんの突っ込みに朝太さんが赤くなっている。
「柴田さんは何をかけるんですか? 根多が付かないようにします」
「二人に演ってもらう噺はもう決めてあるんだよ。朝太さんは最初に上がって執拗(ごうじょう)、次の若朝さんは江戸荒物、中入りを挟んであたしが演るよ。これでどうだろう?」
二人して「「え〜!」」っとハモっている。
「あの噺は難しくて……」
「東京のお客さんの前で江戸荒物ですか〜?」
「ゴチャゴチャ言ってねぇで稽古すりゃいいじゃねえか」
大将の江戸弁や〜。
「それで師匠は何を演るんだい?」
「あたしは文七元結(ぶんしちもとゆい)を演りますよ。きっちりとしたものを遺しておきたいので」
僕は師匠の言ったきっちりとした文七元結に興味があったが、大将は気にしてないようだ。
「今の時期にぴったりな大根多だ。楽しみだな〜」
大将はもうワクワクしている反面、若手二人はソワソワしている。
「わたしはこのあと夜席があるので、これで失礼します。執拗の稽古もしたいですし」
「僕もとりあえず大阪に一旦戻りますぅ。あの三人にも柴田さんの落語会に来てほしいですし、大将のお蔭でお金も余ってますから、あいつらの新幹線代も何とかなりますぅ。江戸荒物の稽古もあるし、三人に稽古のやり方を教えたいですから。みなさん、どうもお世話になりました!」
慌ただしく二人が店を出て行った。僕たち三人も店が再開する時間に帰路につくことにした。ここまで来て実家に顔を出さないのはどうかと思ったが、車の件をメールで済ませることにした。明日が早いので美代ちゃんも今日は早めに家に帰るそうだ。コンビニでつまみ代わりに、新入荷の江戸前黒いなりを買って帰る。
黒いなりのこくのある旨さに師匠も満足そうだ。
「きっちりとした文七元結ってどういう意味ですか?」
「文七元結は志ん朝さんのとか、他にいくつか聴かせてもらったけど、みんな圓朝師匠が新聞に連載したのを手本にしているみたいだね」
「やまと新聞に掲載されたんですよね。それと今まで、多くの名人といわれた人たちによって語り継がれています」
「でもな、新聞に載った圓朝師匠の文七元結は少しだけ、師匠が創った噺とは違うんだよ」
「わざと新聞には違って載せたってことなんですか?」
「そうなんだよ。あれは師匠の噺を速記したものじゃなくて、師匠が書いたものを新聞に載せたんだけど、師匠が書くときに、吉原の女郎屋を角海老(かどえび)にするようにって、誰かに言われたみたいでね」
「そうなんですか。でも今じゃほとんどの噺家が佐野槌(さのづち)で演ってますよ」
「正しいのは『さのつち』って濁らないんだが、佐野槌で演ってくれるのは嬉しいね。師匠はそのことで、きちんとした文七元結ではなくて、少し悪戯(いたずら)をしたんだよ」
「角海老にしてくれってことに、反対だったんですね」
「ああ、角海老は明治になって出来た見世だからね。そりゃ時計台があって立派な貸座敷だったんだけど、新しい見世だから知ってる人が読むと半ちくなんだよ。それで師匠は怒って悪戯したんだよ。断ればいいものを、色々としがらみがあったんだろうな」
「誰が角海老でなんて言い出したんですか?」