夢幻圓喬三七日
若いベルが荷物を持って、館内の案内をしながら部屋まで先導してくれる。先に師匠の部屋を開けると、そこは見事なまでに和室だった。寝室に続く居間には座椅子、みかんの乗った座卓まで用意されていてさながら旅館だ。美代ちゃんに感謝しなくっちゃ。続いて隣の僕の部屋へと案内するベルに師匠もついて来る。ベルが洋室の説明をしてくれる横で、ボストンバッグからお気に入りの墨芯堂の紙袋を出している。やがて紙袋からゴソゴソと墨芯堂主人手製の祝儀袋を取り出した。師匠、ここは日本のホテルです! チップは受け取りませんよ。僕の心の声は師匠には届かなかったようで、
「あたしは部屋で落語の稽古をするんで、迷惑を掛けると思います。宜しくお願いしますね」
「ありがとうございます。落語会頑張って下さい」
あっさりと受け取ってベルは部屋を後にした。
「なんで落語会のことを知っているんですかね?」
「そりゃお美代ちゃんが連絡してくれたんだろうよ。そのくらいのことは訳無くする娘(こ)だよ。手放したらバチが当たるぞ」
そうだよな〜。それしか考えられないよなぁ。絶対手放さないようにしよう。フロントで渡された伝言に目を通すと、その美代ちゃんと同期の瀬尾弥生さんからのものだった。携帯番号とメールアドレスが書かれていて、ご連絡は24時間大丈夫です。と添えられていた。同期の気遣いにも恐れ入る。
「近くに大阪で一軒だけの寄席がありますよ。行きますか?」
「大阪の寄席は一軒だけなのか。寂しいな」
「ギリギリ昼席のトリに間に合いますが、どうしますか?」
「せっかくの大阪だから少しのんびりしようよ。夜席でいいよ。それまで部屋で少しのんびりさせてもらうよ」
師匠は自分の和室に戻ってしまった。やっぱり少し変だ。志ん朝師匠の動画に何があったんだろう。考えてもわからない僕は、夜席の時間と出演者を調べることにした。日曜日の夜席は若手中心で午後六時から開演だった。夕食はどうしようかな? 適当に夜席を楽しんでから食べることになりそうだ。美代ちゃんと瀬尾さんに無事チェックインできたことを知らせるメールをして、高座着などの着替えを整理することにした。僕のマンションに居るときと違って、隣室で稽古をしていても、ここには師匠の声は届かない。それともお風呂で歌っているのかな……。
美代ちゃんと瀬尾さんから大阪に到着したことを喜ぶメールが返信されてきた。瀬尾さんは大阪案内まで申し出てくれたが、丁重にお断りした。瀬尾さん気を遣いすぎです。のんびりして下さい。
五時過ぎに師匠の部屋へ行き声を掛けると、部屋に通される。今まで師匠はこの部屋で何をしていたのかな? 部屋を見回すと姿見の前に座蒲団が置いてあった。やっぱり稽古をしていたのだろう。師匠は「今、支度するからちょいと待ってておくれ」そう言って、座卓に置かれているみかんと、あれは何て言ったかな? 湯呑みなどが入っている木の入れ物……、そうだ千歳盆だ。そこから割り箸を取り出して墨芯堂の袋に入れた。
「大阪の寄席は飲食禁止ですよ。席では食べられませんよ」
僕は先ほどネットで調べた情報を師匠に伝えた。
「食べるんじゃないよ。必要ないと思うが、念のために持って行くだけだよ」
念のためって、何に使う気なんだろう?
寄席までは歩いていける距離だ。師匠は時々街並みを眺めていたが
「懐かしいけど、ここら辺もすっかり変わっちまったね」
「この辺にも来たことがあったんですか?」
「レイフがあってね。『三枚起請(さんまいきしょう)』の花魁をレイフから吉原に来たことにして、噺を拵え直したんだよ。だからあたしの三枚起請の花魁は大阪言葉なんだ。圓右さんや他の人は大阪言葉が話せないから、品川から移ったことにしてたけどね」
レイフってこの辺のそういう場所だったんだ。どんな漢字を書くのかな。
「花魁をわざわざ大阪出身にしたんですか?」
「ああ、江戸の出だと噺が半ちくになっちまうんだよ」
「どこが半ちくになるんですか?」
「当時の吉原で起請文を乱発するのは御法度だったんだよ。いわゆる廓の法ってやつだね。乱発したお女郎(じょうろう)は、それこそ品川や他へ移されたんだよ。熊野の起請文には七十五羽の烏が描かれているから、一回の嘘で三羽死んでも、二十五枚までは許される、なんて云うお女郎も居たけど、住み替えさせられたよ。江戸のお女郎はみなそれを知っているからね」
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* 騙すのが渡世のお前だから、
* 野暮なことは言わねえが、
* 起請だけはよしねえよ
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* 落語 三枚起請(橘家圓喬)より
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そうだったんだ。きっと自分で納得できない噺は演らなかったんだろうな。大阪の寄席で末廣亭よりも高い木戸銭を払って中に入る。僕は初めての大阪の寄席だ。師匠も百年ぶり以上だろう。日曜日の夜席は混んでいた。二階席は一杯で、一階の前方上手側の隅っこに二人並んで座った。若手噺家の上方噺を大阪の寄席で聴く、しかも隣の圓喬師匠が一席ごとに小声で評論をしてくれる。幸せだな〜。三人目に高座に上がった若手がマクラを話し始める。
「百人坊主か。背伸びしたな」
師匠が囁いた。東京の『大山詣り』に似た噺だ。登場人物も多いし、場面も多い、難しい噺なんだろうな。登場人物の年齢も高めだし、師匠が背伸びしたと言った理由もわかる。恐らくは稽古をつけてもらった通りに演っているのだろう、額に汗を浮かべて熱演している。出来はともかく熱演は評価したい。やや早口に30分弱でサゲまでくる。師匠は紙袋をゴソゴソして祝儀袋を割り箸で挟んで、なんとみかんに突き刺した。他のお客さんの拍手とともに立ち上がり、舞台まで進んで舞台上にみかんを置いた。みかんに突き刺さった割り箸の先には祝儀袋が挟まれている。そのシュールな光景を楽屋へ戻る若手が驚いて見ている。師匠の行動にざわめいている場内を、二人で後にしてロビーを抜けて表に出た。
「ちょいと騒がしちまったね。次上がる噺家に申し訳なかったかな」
「あれはなんだったんですか?」
「大阪ではああしてご祝儀を渡してたんだよ」
と、その時、背後から関西弁で声を掛けられた。
「すんません。旦那さん。ちょっと待って下さい」
振り返ると、先ほどの高座で百人坊主を演っていた若手の噺家、桂若朝(わかちょう)さんだった。右手にみかんのご祝儀を持って追いかけてきた。
「あ〜あ、やっと追いつきました。これどうもおおきに、ありがとうさんです」
「いや、驚かせちまったようで悪かったね」
「東京の方ですか?」
「そうだよ。大阪にも何年か居たことはあるが、東京もんだよ。関東の屁化垂(へげたれ)だよ」
「いえ、そんなことはありません。大師匠のそのまた師匠から聞いたことがあります。昔々の寄席ではこないしてご祝儀を渡してはったそうですね。その師匠も、わてはもろうたことがない、云うてはりましたけど、僕、生まれて初めてですわ。なんとも粋(すい)〜なもんですね」
「お前(まい)さんの百人坊主が良かったから、思わず祝儀を出しちまったよ。今日が根多おろしだろ?」
「わかりますか?」
「わからいでか。一生懸命教(おせ)えてもらったようにやろうと苦労してたろ」