夢幻圓喬三七日
八日目:平成24年11月29日 木曜日
「なあ〜に良いことはおまへん、熱い物を飲んだときには熱いのが余計長いなぁ」
ベッドルームで聴く今日の噺は関西弁だった。これってろくろ首のサゲだったかなぁ? 違うような気がする
「今日は末廣亭の後に蕎麦屋の大将の所で二人会ですけど、それまでどうしますか?」
「そうだな、末廣亭は圓馬さんに挨拶するだけだし、大将のところは夜遅くだしな。テレビでも見てのんびりするか」
「落語じゃなくていいですか?」
「少しは今の時代のことも知っとかなくちゃならないしね。飽きたら落語を聴かせてもらうよ」
朝食から帰ってきて朝湯の時間だ。今日のバスルームからは唄ではなく噺が聞こえてくる。
「そも我が父は大和の侍四条上がるの横町に住まいを……」
これはわかる。現代のそれとは違うが『たらちね』に出てくる言葉が丁寧な女性のセリフだ。師匠はゆっくりと丁寧に語っている。
風呂から上がりテレビ試聴会となったが、二人とも30分で飽きてしまい、落語鑑賞会に変更した。若手中心に比較的短い噺を聴く。上手い噺、まずい噺、とちりがあったり色々だが、師匠は穏やかに聴いている。若手には優しいのかな? 師匠にとっての新作というべき噺、サゲが変わっている噺、ほとんど漫談といった方がいい噺なども、時々わからない言葉を僕に聞きながら、静かに聴いている。
「そろそろお昼ですね。昨日の海苔とハムが残ってますからご飯を炊きましょうか?」
「いや、コンビニで何か見繕ってもらおう」
コンビニへ寄ると店長が話しかけてくる
「昨日はごちそうさまでした。あのハムと海苔はまだ残ってますか?」
「えっ、まだ少し残ってますけど……」
「でしたらこちらと一緒に食べてみて下さい」
そう言ってカットフルーツの盛り合わせと、カチョカバロというまん丸なチーズを勧めてくれた。昨日までは置いてなかった商品だ。きっと特別に注文してくれたものに違いない。
「このチーズは薄く切って、表面を少し焼いて、ハムでも海苔でも巻いて食べていけるはずです。あの海苔の香りも楽しめると思います」
「いいな〜美味しそう」
バイトの女の子が思わず本音を言ってしまい、店長に睨まれている。残念でした、あの海苔も生ハムも中々手に入らないと思います。
部屋に戻って、秋田白神の生ハムと季節のフルーツ、そしてカチョカバロと肥前海苔という何とも上品な昼食が始まった。師匠は生まれて初めてのチーズだ。僕もカチョカバロは初めてだ。軽く焼いて海苔で巻いて食べる
「食べやすい餅みたいで旨いな。少し醤油を付けるとたまらないね」
「確かに旨いですね。お酒にも合いそうですね」
「飲みたいが今日は止めとこう。この後があるからな」
「そうですね。ハムはどうですか」
「この水菓子(みずがし)とハムも旨いね、葡萄と苺だろそれと林檎はわかるけど、この緑色のは何だ?」
「それはニュージーランドという国から来たキウイという水菓子です。それと水菓子でも通じますが、今は果物とかフルーツといってます」
ニュージーランドの説明は僕には出来そうにないので省略した。
「水菓子で通じるんなら水菓子で良じゃねえか。めんどくせえな。伊勢の浜荻とは訳が違うぞ」
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* 草の名も 所によりて
* 変わるなり
* 浪速の葦は 伊勢の浜荻
*
* 連歌集 菟玖波集 より
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「でも、昔から色々な言葉が変わってきたんじゃないんですか? 落し噺が落語っていわれてきたりしたでしょ」
「なるほどな、上手い喩(たと)えだな」
初めて褒められたのかもしれない。この食べ方を美代ちゃんにメールで教えてあげよう。忘年会で出せるかどうかはわからないが、知っておいて損はない食べ方だ。
「それにしても、この時代のフルーツは旨いね」
「昔はこんなに旨くなかったんですか」
「あの時代は旨いと思っていたんだが、これを喰っちまうとダメだね」
生野菜は苦手だが、果物は好きみたいでよかった。もっといろんな果物を食べてもらいたくなった。
新宿に行く時間が近付いてくる。
「末廣亭で圓馬さんに会えたとしてその後はどうしますか。そのまま実家へ行って、二人会にそなえますか?」
「いや、一旦帰って風呂につかりたいな」
「わかりました。そろそろ出発しましょうか」
新宿三丁目駅に着くと三時を少し過ぎていた。丁度いい時間だ。今年の夏に、ここ末廣亭を舞台にしたアニメが放送されたためか、平日とはいえそこそこのお客さんが入っているみたいだ。木戸銭を払い師匠はずんずんと楽屋に進んでいく。
「御免なさいよ。圓馬さんいるかい」
コンビニでは違和感があったが、寄席の楽屋では至極当然のように聞こえる。前座さんだろうか、少し驚いていたが、圓馬師匠を呼んで来てくれた。ここは両師匠に任せるしかない。
「おう、こないだは悪かったね。お詫びのしるしにこんなのを持って来たんだが受け取ってもらえるかい」
そういって、圓喬師匠は子別れが入っている四方帙(しほうちつ)を圓馬さんに差し出した。
「こちらこそ勉強不足で失礼いたしました」
圓馬さんは正座をして如才無く応えているが、やっぱり御自分でも出来は良くないと思っているのだろうか。そして、なによりも圓馬さんが師匠の顔を覚えていたことに僕は驚いた。
「うちの家は二代目の圓馬兄弟にちょいと関係があってね、それで伝わっている子別れを、あたしが書き写してきたんだよ」
「開けてもよろしいでしょうか」
圓馬さんは丁寧に話しているが、その胸中はわからない。見るからに立派に仕上げてある子別れの口伝を怖々と取り出している。表紙を捲る手が少し震えているのは、緊張のせいだろうか、それとも不安のせいだろうか。最初のページに書かれた『二代 三遊亭圓馬』『初代 橘ノ圓』の名前を読み取ると、驚いて師匠の顔を見上げる。師匠は先を促すように頷いている。次のページに目を落とすとはっきりと手が震えだす。次々とページを捲り、あたりに墨の匂いが香ってくるころに、ようやく圓馬さんは口を開いた
「こ、これは?」
「さっきも言ったようにうちに伝わっている子別れだよ。書き写してきたんだ。受け取ってもらえるかい」
「いや、さすがにこの様なものを受け取るわけには」
「同じ圓馬だ。二人も喜ぶだろうよ」
「本当によろしいんですか」
「ああ、二人の子別れを継いでくれりゃあたしも嬉しいからね」
恐らく圓馬さんは墨の香りや本の仕上がりで、これが最近、それも自分のためだけに書かれたものであることがわかったはずだ。自分のためだけに書かれた、二代圓馬と初代圓の子別れ。その価値は僕の想像を超えているのだろう。きっちりと頭を下げて
「ありがたく頂戴いたします。精進いたします」
「今日は何を演るんだい」
「二番煎じです。精一杯努めさせていただきます」
「そいつは楽しみだ。前で聴かせてもらうよ」
そう言って、師匠は楽屋を後にした。