夢幻圓喬三七日
美代ちゃんがニコニコしてこちらを見ている。彼女がなにを考えているのか、僕はわからないふりをすることにした。
その後は和気藹々と忘年会の時間などを打ち合わせて、会社を出る。会社の玄関まで二人は見送ってくれて、こちらの姿が見えなくなるまで頭を下げていた。さすがに総務部長だ。それとも古銭の力かな。
「これからどうしますか? 末廣亭の昼トリにギリギリ間に合いますよ」
「なに、そんなに慌てるこたあないよ。明日でいいよ。それより『お偲び揃え』を買いたいんだが」
「お偲び揃えってなんですか」
「仏壇ほど大げさじゃなくって、ちょっと線香をあげられる小振りなやつだよ」
携帯で検索したらちょうど近くに扱っていそうな店があった。
店ではお偲び揃えと線香、それに蝋燭も買うことが出来て、師匠も満足そうだった。結構な荷物になってしまったが、マンションの近くで菊の花を買って、和室に設(しつら)えることにした。
師匠はそのお偲び揃えの前に子別れの本を置き、線香をあげている。和室に線香と蝋燭、そして墨の香りが満ちてくる。圓喬師匠よりも後でお亡くなりになった、圓馬さんと圓さんになにを語り伝えているのだろうか。圓喬師匠のその背中は、僕になにを伝えてようとしているのだろう。師匠が静かに振り向く。
「あたしが死んだ時には二人とも生きていたから妙な気持だな。おまえさんも線香をあげてもらえるかい」
「もちろんです」
「ありがとな。その線香は『円明(えんめい)』っていうんだ。なんかいい名前だよな。それにこの蝋燭は蜜蝋が入っているんだ。二人は酒を飲まなかったから、甘いもんが好きだったんだよ。香りだけでも楽しんでもらおうと思ってね」
「そうなんですか。きっと喜んでくれてますね」
部屋の中の甘い香りが一層強くなったような気がした。
今日はまだたっぷりと時間がある。僕が普段疑問に思っている噺を聴いてもらい、師匠の解釈を聞きたいと考え、提案してみた
「落語で大根多っていわれている噺なんですが、なんか腑に落ちないというか、好きになれない噺があるんですが、聴いてもらえませんか?」
「なにも好きでもない噺を聴くこたあねえだろ。寿司屋で嫌いなネタを喰うようなもんだよ」
「でも、何で大根多っていわれているのかもわからないですし、柴田さんの意見も是非お聞きしたいです」
「おまいさんも物好きだね。わかったよ、聴かせてもらおうか」
上方の大御所による菊江の仏壇を聴いてもらう。確かマクラで圓喬師匠のことにも触れている。およそ40分、出囃子が聞こえてくる。
噺が終わりプレイヤーを停め、師匠を横目で見ると、厳しい顔をしている。恐る恐る話しかける
「いかがでしたか?」
「マクラのあたしの話はご愛敬としてもだ、これが大根多なのかい」
「そう言われています」
「圓右さんや小圓朝さん、それに上方では圓馬さんも演ってたけど、もっと小ぎれいにまとめてたよ。せいぜい十五分くらいの根多だよ」
「そうなんですか」
「ああ、何でもかんでも詰め込めばいいってもんじゃないだろう。それに今の噺だと大旦那が見舞に行ってからお花は死んだけど、初めて聴いたよ。みんな百ヶ日(ひゃっかにち)の法要で演ってたよ。何でこんな噺にしちまったんだろうな」
「詰め込みすぎたんですかね」
「そこが上方らしいといえばそうなんだがな。それから噺家が演る前から客に向かって、この噺は難しいなんて言っちゃお仕舞(しめえ)だよ。自分で難しいと思っている噺でも、さらっと出来るように稽古をするもんだよ。高座は稽古場じゃねえんだ」
「よくわかりました。もう一席だけ聴いてもらいたいんですが……」
「まだあんのかい。おまえさんも熱心だね。いいよ聴くよ」
同じ大御所の立ち切れ線香を聴いてもらう。これにも同じマクラがでてくる。こちらもおよそ40分だ。
プレイヤーを停めて再び師匠の顔を覗き込む。今度はニヤニヤ笑っている
「また、あたしのことをいってたね。ずいぶん気に入られたみたいだな。これは大根多ってよりも、元々怪談だからな」
「まあ、怪談風に聞こえますが……」
「怪談風じゃなくて怪談なんだよ。若い頃、上方で桂小團治(こだんじ)さんのを聴いたきりだが、サゲの唄も雪じゃなくて、紙治(かみじ)だったよ」
「紙治ってなんですか?」
「近松の心中天の網島の一節だ。紙屋治兵衛と小春の心中物だよ。だからこの噺の若旦那はこのあとに小糸の後を追って死ぬか、小糸にとりつかれて死ぬか、そう思わせるのが聴かせどころなんだが、これも色々詰め込んで失敗ってるな。無理してこんな噺をしなくても良かったろうに、腕はあるんだから」
大御所の技量は認めているみたいなので、僕は少し安心した。僕が二つの噺でもやもやしていたことも、師匠の解説で腑に落ちた。大根多とか難しい噺という言葉で誤魔化されてはいけないんだ
「柴田さんはこの二つの噺は演っていないんですよね」
「ああ、あたしはこんな大根多を出来るほどの腕はないからね」
そう言って嬉しそうに白湯をすすっている。と、携帯が彼女からのメール着信を知らせた。
……7時頃行くからご飯を少し硬めに炊いておいてね……
おにぎりマークの絵文字付きだ。
おにぎりなのか? どんなおにぎりを作ってくれるんだろう。師匠に話すと
「そいつは楽しみだな。お隣へも持って行くんだろ、おまんまは多目に炊いた方がいいぞ」
「でも、彼女は料理が苦手って言ってましたから、なにかつまみを買っといた方がいいですかね」
「そりゃダメだ。お美代ちゃんに任せるんだ。それにどんな料理が出てきても、うめえ、うめえって喰わなきゃダメだ」
「えっ、柴田さんはお世辞が嫌いで、厳しいことを言うって、何かで読みましたよ」
「元々はそうなんだが、こっちへ来てから何か変なんだよ」
「なにが変なんですか?」
「それがな、おまえさん始め、いろんな人に世話になっているからなのか、胸の病気が気にならないからなのかは、わからないんだけど、他人様の悪いところよりも、良いところに目がいくようになったんだよ。こんなのは生まれて初めてだよ。おっと、一度死んだんだから、生まれ変わる前から初めてだよ。言いづらいな」
「そうなんですか、きっと今が本当の柴田さんなんじゃないですか?」
「ありがとな、しかし落語は別だよ。これしか取り柄がないんだからこれからも厳しいぞ」
「でも、彼女の料理はきちんと評価してあげた方がいいでしょう」
「お美代ちゃんは料理を仕事にしてるわけじゃないんだから。それにお美代ちゃんは褒められて成長する質(たち)だ」
「よくおわかりで。その通りですね。褒めまくりましょう」
「わざとらしいのはダメだぞ、さりげなくだ」
「そうしましょう。さりげなく、さりげなくですね」
美代ちゃんが紙袋を手に勢いよくやって来た。キッチンに飛び込むと、ゴソゴソと支度を始める。覗きに行くと叱られた。