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夢幻圓喬三七日

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「十二階と白木屋にあったよ」
「じゅうにかい?」
「浅草の凌雲閣(りょううんかく)のことを十二階って呼んでたのさ。そこに最初のエレベーターがあってね。乗ろうと思っているうちに危ないからって禁止になっちまってな。あすこはあたしが死ぬ前には演芸場も出来てたよ、お声がかかる前に死んじまったがね、今もあるんだろ?」
「その辺のことは後でゆっくりと話しましょう」
 凌雲閣も白木屋も知らないとは言えず誤魔化すしかなかった。
 エレベータの扉が開いて中からベビーカーを押した女性が出てきた。多分お隣の奥さんだ。師匠は脇に避(よ)けながら
「おはようございます、よい御天気で、御苦労様ですね」
 少しかすれてはいるがはっきりとした口調で声を掛けた。圓朝師匠とは質は違うがこれも心地好い声だ。お隣の奥さんはほんの少しだけ驚いていたが言葉を返してくれた。
「おはようございます、いってらっしゃい」
「はい、どうもごめんなさいね」
 師匠の言葉に奥さんの顔が少しだけ輝いた。挨拶は大切だ、特に朝の挨拶は一日の方向が決まるように思う。結局、一言も声が出せなかった僕は少し恥ずかしくなった。
「和食でいいですね、定食屋が近くにありますから」
「和食の定食とは珍しいね」
「定食といえば和食じゃないんですか」
「普通は西洋料理でしょ」
 洋食の定食とは想像しづらかったが、師匠はそんな時代から来た人なんだとあらためて思った。

 マンションの玄関では通いの管理人さんが掃除をしていた。今度はどんな声を掛けるのだろう見習わなくっちゃ。
「おはようございます、ご精が出ますね」
 植木屋さん、と続いたら吹き出すところだった。

***************
* 大層ご精が出ますな
* 植木屋さん

* 落語 青菜
* (春風亭柳橋)より
***************

 師匠と同じくらいの歳に見える管理人さんは
「おはようございます、いってらっしゃい」
 挨拶にも慣れている様子だったが、師匠のことをチラチラと見ていた。食事から帰ってきたらちゃんと説明しないとね。でも、師匠のことを何て紹介しようか、食事をしながら相談しよう。
 並んで通りを歩きながら、少し先の信号を僕は指差して、定食屋の場所を師匠に教える
「あの信号の近くに店があります」
「しんごう? そりゃなんです」
「信号なかったんですか?」
「だからそれはなんです」
「すみません、あそこで赤く光っているやつです、もう少しすると青になります、赤は止れ、青は進めです」
 その時信号が青に変わった。
「ありゃぁどう見ても緑でしょ」
「ですよね、でも今はあれを青と呼んでいます」
「じゃ元々の青は今は何色って呼んでんだい」
「信号の色だけです、緑を青というのは。他は青は青、緑は緑です」
「そうなのかい、なんかめんどくさいね」
 そうこう言っているうちに店に着いた。師匠はショーウインドウをじっと見つめている
「これを持って中で食べるのかい」
「いえ、これは見本ですから食べられません、中で注文します」
 自動ドアにちょっとだけびっくりした師匠と共に店内に入る。店内では店員のオバサンが一人ぼんやりと手持ち無沙汰だ。
「食べさせてもらうよ」
 びっくりしながら頭を下げているオバサンを横目に師匠が僕に話しかける。
「ここは一膳飯屋だね」
「そうですね一膳飯屋の方がしっくりしますね」
「ひとつせんめしありやなきや」
「二人旅(ににんたび)ですか」
「煮売屋(にうりや)だよ」

***************
* 一ぜんめしあり やなぎや

* 落語 二人旅 より
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「上方が煮売屋で、東京では二人旅といってます」
「死んでる間に誰かが移したんだね」
 そうか落語もそんな時代があったんだ。

 お客さんがほとんどいなかったので、ボックス席について、僕がセルフのお茶を用意する間に、朝食メニューの中から決めてもらう。師匠は納豆定食、僕はハムエッグ定食にした。
「師っ、柴田さんは今の東京を見ても余り驚かれないんですね」
「やっぱりここは東京(とうけい)だったのかい」
「そうですが、今じゃみんな『とうきょう』っていってます。それに都(みやこ)を付けて東京都っていいます」
「府(ふ)から都(みやこ)になったのかい」
「そうです、でも驚かれないんですね」
「あたしが生きた間(あいだ)でも東京は随分変わったからね。百年といえばその倍以上だよ、変わりもするさ。それよりもこれが一番驚いた」
 メニューの値段を指差す。納豆定食三百五十円。ごはん・味噌汁・納豆・生卵・たくあん・味付海苔・かぼちゃの煮物の小鉢まで付いてこの値段は破格でしょう。
「そんなに高いですか」
「長屋が丸々建てられる」
 お茶を吹き出しそうになった。
「柴田さんの時代だったらいくらなんですか」
「一膳飯屋には入ったことはないが、蕎麦屋で盛りは一枚三銭五厘だったな」
「この時代は盛り蕎麦は七、八百円はしますよ」
「この納豆定食よりも高いのかい」
「安いところもありますが、普通の蕎麦屋だったらそれくらいはしますね」
「お銭(あし)を拵えるまで蕎麦は喰えないね」
「柴田さんは蕎麦好きですか」
「ああ、蕎麦はいいね、モタレないし早いし、冷たくっても熱くしても旨いからね。上方へ行ってたときは旨い蕎麦がなくて困ったよ」
 頼んだ定食が運ばれてきた
「こりゃ豪勢だねおかずがいっぱいだ」
 一心不乱に納豆を掻き混ぜながら、チラチラと僕のハムエッグに視線を送ってくる。
「これはハムといって豚肉の塩漬けをですね」
「知ってるよ、高いから食べたことはないがね」
「一枚いくらしたんですか」
「二十銭だ」
 今度は味噌汁を吹き出しそうになった。盛り蕎麦六枚分、今の時代なら四千円以上だ。ハムを二枚持って逃げ出しそうになった。

***************
* 番頭、みかん三袋持って
* ずらかった

* 落語 千両みかん より
***************

「醤油をかけちゃいましたけど、よかったら一枚いかがですか」
 だれがなんと言おうとハムエッグ定食には醤油だ。パンとハムエッグだと塩こしょうかソースか迷うけどね。
「いいのかい? 悪いね、代わりに卵をやるよ」
 生卵とハムを交換する。店員のオバサンがこちらを見ている。
「生卵はお嫌いですか」
「嫌いって訳じゃぁないが、あまり食べないな、好きな人は増えてきたけどね」
 そうか、卵かけご飯は徐々に市民権を得ている途中か。師匠は納豆を混ぜながら
「この納豆は少し小粒だね、それにあまり匂わない、醤油だけで辛子は必要ないな」
「それで小粒ですか、普通だと思いますが」
「天野屋のはこの倍くらいあるよ」
「よく買うお店ですか」
「東京で納豆といえば明神脇(みょうじんわき)天野屋の芝崎納豆が一番だね」
「今でもありますかね」
「どうだろう、あすこらへんも隨分と変わったんだろう」
「変わったと思いますが家に戻ったら調べてみます」

 味付海苔に戸惑っていた師匠が、最後まで手を付けなかったハムを、大事そうに口に運んで食事を終えた。僕は生卵かけご飯にハムエッグという朝食だった。
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢