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夢幻圓喬三七日

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 恋人じゃないです。後一歩です。いやいや、そんなことはどうでも、良くはないけど、今はお礼を言わなくてはならない。
「ありがとうございます。彼女も僕もついでに叔父さんも大好物です」
「器はいつでもいいですからね、では、ごめんください」

「柴田さん、お隣から肉じゃがをいただいちゃいました」
「肉じゃがってなんだい。肉とじゃが芋かい?」
 肉じゃがは最近の物なのか
「肉とじゃが芋と人参と、これです」
 肉じゃがの調理法を言うより見せた方が早い。
「これは甘煮(あまに)かな。楽しみが増えたな。河井君の恋人とどっちが旨いかだな」
 師匠はしっかりと玄関先での会話を聞いていたようだ。
 書き物の墨も乾いたようで、師匠がまとめ始める。和紙が入っていた袋に丁寧に包み直して、墨芯堂の紙袋に入れた。
「それはなんていう紙ですか?」
「読めないのか。楮(こうぞ)の本草紙(ほんそうし)だよ。書きやすかったよ」
「なにを書いていたんですか?」
「落語の床本みたいなものだな」
「演目はなんです?」
「子別れだよ」
 ここで彼女の来訪を知らせるインターフォンが鳴った。

 彼女が、清水美代子と名告った自己紹介もそこそこに、テーブルについて食事会が始まった。
 彼女は飲み慣れていない日本酒に最初は戸惑ったが、乾杯の一口でその口当たりの虜(とりこ)になったようだった。店長に感謝しなくっちゃ。その店長お薦めのつまみにも満足している様子だ。
「そこのコンビニは旨い酒やつまみなんかに気を遣ってくれてね。ハムサンドも旨いんだよ」
 師匠はお気に入りのコンビニを持ち上げている。
「こういうおつまみを置いているコンビニは珍しいわよ。普通のコンビニルートじゃ注文できないから、独自に仕入れているのね。よっぽど、有利な契約にしてるんだわ。やり手のオーナーね」
 店長はとてもやり手には見えないが、食品商社に勤める彼女が言うのだから真実なのかなとも思う。肉じゃがにも手を伸ばし、美味しそうに食べて始めた。
「それを持ってきたお隣のカミさんは、お美代ちゃんと料理の腕前で勝負だって言ってたよ」
 彼女のことをお美代ちゃんと呼ぶのはオーケーです。でも話を大げさに伝えるのは、やめてもらえませんかね、師匠。
「今度作りますね。私はこう見えても料理は苦手なんです。でも、食べるのは得意ですよ〜」
 彼女は自分のことをどう見られてると思っているんだろう。
「そいつは楽しみだな。あたしがいるうちに頼むよ」
 そうだった、楽しい一時にツイ忘れてしまいがちになるが、師匠には制限時間があったんだ。
「任せて下さい。何か食べたいものはありますか?」
「お美代ちゃんの手料理なら何でも食べちゃうよ」
 僕は師匠の嫌いな物を知っている。
「柴田さんは、サラダ、生野菜が嫌いでしょ」
「ありゃダメだ。ウサギじゃないいんだから、生はダメだ」
 彼女は大笑いしながらも、興味津々に師匠を質問攻めにする。師匠も楽しそうに答えている。
「へ〜、浅草海苔ってそんなに美味しかったんですか? 食べてみたかったな〜」
「今はないのかい」
「浅草海苔っていう海苔の種類はこの世から消えかけています。今の海苔は別の種類の海苔なんです」
「なんでまた消えかけちまってるんだ」
「海が汚れたせいです。それで浅草海苔が生息できなくなったんです」
「そうか、大川から白魚や鰻なんかもいなくなっちまってたからな。こんなに便利な時代なのに色々あるんだな」
 大川と呼ばれていた隅田川は白魚でも有名だったんだ。僕は落語のマクラを思い出した
「佃育ちの 白魚(しらう)でさえも 花に浮かれて 隅田川、なんて云われてましたよね」
「そんなことは云われてないぞ。それをいうなら、荒海育ちの 海豚(イルカ)でさえも 花に浮かれて 隅田川、だろ。明治の終わりに大川に海豚が現れて大騒ぎになったんだ。それを唄った都々逸だよ。新聞にも出たんだぞ。それに、大川に普通にいた白魚が、なんで花に浮かれなくちゃいけないんだい?」
 そうか、白魚はイルカの焼き直しだったのか。

***************
* 佃育ちの 白魚でさえも
*  花に浮かれて 隅田川

* 落語 芝浜のマクラ
* (桂三木助)より
***************

 彼女は神妙な顔をしている
「便利な時代と引き替えに多くの物を失ってしまった、という人もいますよ」
「でも、そのお蔭で、お美代ちゃんや河井君が生まれてきたわけだ。そう考えりゃ捨てたもんでもないさ」
 そんな考えはしたことはなかったが、そうかもしれない。何ていったけ、そうだバタフライエフェクトだ。師匠は照れ臭そうに話題を変えた。
「おまんまあるかい? それと納豆だ」
 茶碗にご飯と大ぶりの納豆を丼に入れて出すと、師匠は一心不乱に掻き混ぜ始めた。確かに匂いの強い納豆だ。こちらにまで匂ってくる。そこに辛子を入れてまた掻き混ぜる。
「これで良しと」
 焼き海苔をもうひと缶を開けて一枚つまむとご飯を少し乗せる。納豆をこれまた少し乗せ、手早く巻いて醤油を少しつけて一口齧ってから口に放り込んだ。
「うん、やっぱり天野屋の納豆は旨いよ。お二人さんもやってごらん」
 言われるまでもなく、二人揃って手が伸びた。師匠にならって食べ始めると、彼女はその美味しさに驚いたようだった。
「美味し〜い。そのままご飯としても、お酒のおつまみとしてもいいですね。こんな納豆があったんですね」
「海苔の香りもわかるし、お寿司の納豆巻よりもこの方がいいですね」
「二人とも気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
 突然彼女が真顔になる
「いつもこんなに美味しいものを二人で食べていたんだ。なんか腹が立ってきた。ねえ柴田さん、何か小咄をして下さい」
 師匠はニヤニヤして小咄を始めた。

◇ ◇ ◇

「昔の御大名は……


更に片足も入れる」
「この御大名が魚を食べるときは……


また桜を見ようかの」

◇ ◇ ◇

 面白いけど小咄で思い出した
「小咄もいいんだけど、柴田さんの落語を披露できるところを探しているんだよ」
「公民館でも借りればいいんじゃないの」
「そんな時間をかけられないから、実家や実家の近所の蕎麦屋で落語会を開いてもらったりしたんだよ」
「私に声もかけずにそんなことしてたの」
「いや、今はそんな話じゃなくて……、美代ちゃんの会社でやってるレストランとか居酒屋なんかで出来ないかな」
 美代ちゃんの勤めている会社ではアンテナ的に飲食店も経営しているので、最適かなと思って聞いてみた。
「だめだめ、これから忘年会シーズンで予約があるから、落語会を開くなんてムリムリ。自分の会社の忘年会もお店じゃなくて、今度の金曜日に社内でやるくらいなんだから」
「じゃあ、会社で落語が好きな人は誰かいないかな?」
「うちの会社の実働部隊は若い人が多いのよ。役員はそれなりの歳だけど落語が好きな人は聞いたことないな〜」
 落語を聴くのに年齢は関係ないと思ったが、ここは黙って美代ちゃんの話を聞くことにする
「私のいる総務は係長は若いし、課長は女性で趣味はガーデニングだし、部長はそれなりの年齢だけど趣味は小銭集めだからダメね」
「小銭集めってなに?」
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢