夢幻圓喬三七日
「師匠の噺が終わった後は鍋焼うどんが出ますよ」
「なんだいそりゃ。今日の演目はうどん屋なのか。うちは蕎麦屋だぜ」
「違いますよ。ともかく鍋焼うどんが出ます」
「よくわからねえが、そこまで言うんなら、エビ天多めに揚げとくか」
会場の大広間では小さいながらも高座が出来ていた。師匠も満足そうにお礼を言って、楽屋代わりの小部屋へと入る
女将さんが白湯とお茶請けを持って再び上がってくる。お茶請けはなんと甘納豆だった
「うちの人がこないだっから、甘納豆、甘納豆って五月蠅いんですよ。丁度ご近所に老舗のお店があるから買ってきたんですが、よかったらどうぞ」
先日の落語会でお出しした少し上品なものとは違って、いかにも頑固に作ってます、というような甘納豆だ。アンズの甘納豆の酸味が嬉しい。
第一陣のお客さんが来て階下が騒がしくなったようだ。師匠に鰍沢を是非と念押しして部屋をあとにした。まさかとは思うが、これで師匠が船徳でも演ったら、大将に殺されてしまいます。
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* 四万六千日、
* お暑い盛りでございます
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* 落語 船徳(桂文楽)より
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会場となる二階の大広間では、ぽつぽつとお客さんが座っているのが見える。今日は前方から埋まり始めているようだ。最前列真ん中に『ご予約席』の札が置いてある。きっと大将の席なのだろう。
店の階段口ではその大将が嬉しそうにお客さんを階段へと案内している。エビ天は揚げ終わったのかな。両親も仲良くやってきて大将に声を掛ける
「今日は大将が口上を述べるんだろ。楽しみにしているよ」
「おう、一世一代の口上をしてやるよ。後で食べてってくれるんだろ」
「ああ、それもお楽しみだ。ところで今何時(なんどき)だい?」
「もうすぐ四時だ」
五、六、七……、と数えながら父と母は階段を上がっていった。
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* 今、何どきだい?
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* 四ツで
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* 五ツ 六ツ 七ツ ……
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* 落語 時そば より
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僕も両親の後から大広間に入り、仲良く座る。
全員が揃ったようで大将が師匠のいる小部屋から出てきて、口上を述べる。
「いいかあ、携帯なんか鳴らすなよ。鳴らしたら一生うちの店へは出入り禁止だ」
笑うだけで携帯を確認しないところからすると、みなさん準備万端のようだ。
「では、立花家蛇足師匠の鰍沢です。師匠どうぞ」
◇ ◇ ◇
「これは三題咄で、この三題咄というのはご承知の通り……」
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やっぱりマクラで圓朝師匠や左楽が登場するのか、そうか『師匠の圓朝が……』とは言えないもんな。他にも三題咄の会の人たちが登場している。なるほど、なるほど、三題咄の会はそんな風に運営されていたのか。先代の正蔵師匠の随談を聴いているみたいだな。と思っていると、ダイヤモンドがでてきて、法華経のお題目から身延山の説明でいつの間にか鰍沢の本題に入っていた。マクラと本題の区切りが全くわからなかった。
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「よしなさいよ。そんなことされちゃ私の方で困るじゃありませんか。ね本当に……」
ここで、お熊が、お礼の金子(きんす)を渡そうとした旅人の胴巻に、目をつけたんだ。師匠は視線だけで演じた。そしてここからお熊の口調が少しずつ変わっていく、旅人に媚を売りつつ卵酒を勧める。旅人だけが気づかず、お客にはお熊が何か企んでいるに違いないと思わせている。
「……胴巻には確かに小判が包みで一本……」
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「どうかしてくれって仕方がねえやな、これまでの寿命と諦めて死になよ」
亭主が帰って来てからのお熊は鬼女だった。痺れ薬が入った飲み残しの卵酒を飲んで、苦しむ亭主を見殺しにする。これじゃご婦人は引くでしょ。初見のご婦人がいるときは演らないと言った意味がわかった。
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「裏手へ行ったら良かろうと行き道を踏み分け、雪崩(なだれ)なりの土手のようなところを上がって下を見ると鰍沢の流れ、東海道岩淵へ落ち急流は矢を突くようなドッという水勢……」
一本の小判の包みで命を狙われることになった旅人が吹雪の中を逃げまどう。冷房のなかった当時の寄席で師匠が真夏に演り、お客が寒さに震えたという伝説の描写だ。会場である大広間全体が吹雪に見舞われている。旅人は綱が切れて一本になってしまった山筏(やまいかだ)に乗って必死に『妙法蓮華経〜』と御題目を唱えている。そこへお熊の狙った鉄砲が、カチーン! お客が仰け反る。
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「たった一本の御材木(御題目)で助かった」
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会場のほっとしたような笑いの中で師匠は下がっていく。他の噺家では不明な所が師匠の噺ではよく分かった。決して説明がましくなく、噺の中へ盛り込んでいる。毒消しの護符の効用。お熊は鉄砲の扱いにも慣れていた。山筏は丸太じゃなくて大きな木の板を綱で留めたものだ。僕は初めて鰍沢という噺を理解できたような気がした。
大将が慌てて立ち上がり。
「皆様、お楽しみいただいたことと思います。このあとは店で何か温ったかい物でも召し上がっていって下さい。別料金で」
みんな笑いながら階下の店へと移動する。河井家は大広間の座蒲団を片づけてから、師匠のいる小部屋へと移動した。
着替え終わっていた師匠に、父がお礼を言ってから、みんなテーブルの周りに座る。そこへ女将さんがお酒と海苔そして板わさを持ってきてくれた
「申し訳ありませんが、下が一段落するまでこれでつないでおいて下さい」
「いえいえ、熱燗があれば御の字ですよ」
父が愛想良く応えている。四人でしばらくはつまみとお酒を楽しみつつ、鰍沢談義に花を咲かせることとなった。父が口火を切る。
「先日の茶金や三味線栗毛も良かったですが、今日の鰍沢も良かったですね。最後は本当に吹雪の中にいるみたいに凍えましたよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、あたしも演った甲斐があります」
「お熊っていう女性は最初は丁寧な応対だったのに、途中からどんどん本性が見えて、怖くなりました」
これは母の率直な感想だろう
「お熊はああいう風に演らないとサゲにかけての勢いが出ないと思っています。ご婦人にはお差し合いがあるかもしれませんが、あたしはあのように演ってます」
「師匠は女の本性をよくご存じですね」
怖いことを言う母に父が目をむいている。
「あたしじゃなくて、鰍沢を拵えた圓朝でしょう」
師匠はニコニコしながらそう言い放った。圓朝師匠のいない所で、一本取った気になっているみたいだ。
店が一段落したのだろうか、大将がやってきた。
「お待たせしました〜」
だから、別に待っていませんよ。きちんと正座で師匠にお礼をする
「本当に凄い噺を聴かせてもらって、師匠ありがとうございます。それとあんたにもお礼を言わないとな」
僕にお礼?
「なんのことです?」
「鍋焼うどんが出るって言ってくれたろ。あの噺を聴いたら喰いたくなるよな。うちは、鍋焼のエビ天は揚げ置きにして堅く締めるんだよ。そうしないと鍋の中で煮くずれちまうからな。足りなくなるところだったよ」
「やっぱり鍋焼が出たんですね」