夢幻圓喬三七日
確かに僕でもわからないメニューがある。ウェイトレスに水と白湯を頼み、無難にビーフカレーを二つ注文する。師匠がビーフカレーという言葉に反応する。
「牛肉のカレーライスかい」
ビーフカレーがあったんだ、と言おうとしてビーフは単なる英語であることに気がついた。師匠が知っていてもおかしくはない。
「そうです、そうです」
「やっぱり今でも西洋料理は高いね。千六百円もするぞ。納豆定食五人前だ」
師匠の価値基準は納豆定食で固定されている。
「でも、盛り蕎麦二枚分ですよ」
僕の基準は盛り蕎麦になりそうだ。
「そうしてみると、お手軽なのかな」
師匠は半信半疑で呟いた。
カレーが運ばれてきて食べ始める。それほど辛くはないが師匠にとってはどうだろうか。そこで気づいてハッとする。
「辛くないですか、喉にはよくなかったですね。すみませんでした」
「よせよ、そんな柔な喉はしていないよ。それにこっちに来てから声の調子もいいんだ。朝の稽古が楽しくってしょうがないよ」
「そうですか、朝は大分(だいぶ)稽古されてるのですか」
「小一時間だよ、それより旨いねこのカレーは」
仲良く二人で食べ終った。師匠は旨そうに白湯を飲んでいる。違う物でも飲んでいるんじゃないかと思うぐらい本当に旨そうに飲む。少し落ち着くと、いい時間になったので実家へと向かうことにした。
JRから都電に乗り換えれば、実家のある停留所まではすぐだ。
都電を見て昔の市電を思い出したのか、それとも石浜館を思い出しているのか、師匠は静かに微笑(ほほえ)んでいる。
実家のある停留所近くでは都電が車道を走っていて、完全に路面電車になるのを見て、師匠の笑顔が深くなる。少し離れたところに見える大学病院以外には、ほとんど高いビルはない商店街を実家へと歩きながら、師匠は僕に優しく話しかけてくれた。
「実家はいいところにあるんだね」
三連休の初日だからか、今は寂(さび)れてしまったのか、商店街に人通りは少ないが、時折すれ違う人たちに軽く頭を下げながら挨拶をしている。手ぶらの人には、
「こんにちは」
何かしら荷物を持っていたり、杖をついている人には、
「御苦労様です」
僕も一緒に頭だけは下げたが、誰にも無視はされなかった。言葉だったり会釈だったり、笑顔だったりを返してくれる。昔はいたる所で見られたごく普通の光景だったのだろうか。商店街ですれ違った体温を持った人たち。空は青く澄んでいて高い。
古い一戸建ての実家までの道のりは以前よりも近く感じた。インターフォンを押すと、「開いてますよ〜」と母が声をかける。不用心かなと思ったけど、今日は落語会だった。何人ここを通って来てくれるのだろう。そしてどんな気持でここを出て行くのだろう。僕が緊張していてどうする。
「ただいま〜、一緒に来たよ〜」
玄関に出てきた父に僕の期待を真っ先にぶつける。
「これ今日のお菓子。ねえ、何人ぐらい集まりそう?」
父は僕に答えるよりも後ろの師匠を見ていた。
「それより中に入っていただきなさい」
振り返ると師匠はまだ玄関を跨いでもいない。
「あっ柴田さん入って下さい」
師匠はお辞儀をしながらゆっくりと玄関を跨いで入ってくれた
「初めまして柴田と申します。この度はご厄介をおかけいたしますが、宜しくお願いいたします」
ほぼ直角に腰を曲げた。父があわてて返礼する。
「いえいえ、私も好きですから、今日は楽しみにしているんです。どうぞお上がり下さい」
師匠を間に挟み父と僕で居間に案内する。襖(ふすま)はすでに取り払われていて仏間まで見渡せる。座蒲団は居間の隅に重ねて置いてある。仏壇に目を止めると師匠は風呂敷包みを足下に置き、
「ご先祖様にもご挨拶をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
父もあわてて、
「そんなお気を遣わないで下さい」
「いえ、こちらを使わせていただきますし、仏壇に背中を見せて噺をすることになりますから、非礼をお詫びしておきたいのです」
父はハッとしている。
「そうですか、わかりました、こちらへどうぞ、誠も一緒に」
仏壇に案内しようとする父を制する師匠。
「先に手を洗わせてください」
昔の人はこうなのだろうか、よくわからない。師匠と二人で洗面所に向かう。母がお茶の用意をしているのが見えた。僕は母に近づいて柴田さんには白湯であることを伝えた。仏間に戻ると父がろうそくを灯(とも)していた。柴田さんに向かって、
「私の両親、誠にとっては祖父母です。落語好きは我が家の血筋です」
「僕が先にします」
この前仏壇に手を合わせたのは、いつだったのかを思い出しながら、焼香を終え師匠と代わる。師匠も焼香をして、何事か呟いてから父へと向き直る。
「失礼いたしました」
父もお礼を述べたところでお茶が運ばれてきた。お茶請けの羊羹(ようかん)を置いて母も輪に加わる。
「おっ、そうだ誠! 二階を楽屋代わりに使っていただくんだが、先に確認してくれないか」
師匠の風呂敷を手に、父と二人して階段を上る。今は年に二回ぐらいしか使われない僕の部屋へ入ると。
「先にこれを渡しておこうと思ってな」
父は一万円札が入った封筒を僕に手渡たそうとした。
「なにこれ?」
「いや、ご祝儀がゼロだと悪いから、いざというときのためにお前が持っていてくれ」
「必要ないよ。あの人はたとえご祝儀がゼロでも、きちんとした評価の方を喜ぶ人だよ。それにそんなことにはならないと思うよ」
父の不安もわかるが、ここで僕が甘えるわけにはいかない。
「大丈夫なのか」
「大丈夫、大丈夫、それより終わったら蕎麦を食べに行こうよ。柴田さんは蕎麦が好きなんだ」
「お前がそこまで言うんだったら引っ込めるが、あの人の落語を聴いたことがあるのか」
「ないけど落研では伝説になってるよ。すごく上手いみたいだよ」
「そうか、本当に楽しみだな」
父は嬉しそうに言った。恐らく師匠の噺は父の予想のはるか上を行くはずだ。
階下では師匠と母がにこやかに話し込んでいた。
「柴田さんは古い噺をお稽古してらっしゃるのね、楽しみだわ。そろそろ早い人たちはやって来るかしら」
そう言って母は台所へ立っていった。師匠も後を追うようにして立つ。
「それで、甘納豆ですがね、適当に見繕ってありますから、ちょいと懐紙の上へでも乗せていただいて、お茶は濃いめの微温(ぬる)めでお願いいたします」
母は甘納豆の包みを開いて驚いたようだ。
「まあ綺麗、本当に色とりどりだわ。お出しするのがもったいないわね」
本末転倒なことを言いながら、彩りを考え楽しそうに懐紙の上へ甘納豆を分けていく。そのとき第一陣の到着を知らせるインターフォンが鳴った。がやがやと家に入ってくる人々の中には知った顔もある。お客さんに頭を下げてから、僕は師匠を二階へと誘った。部屋に入り一番の関心事を聞く。
「演目は決まりましたか?」
「茶金(ちゃきん)にしようと思う」
鰍沢(かじかざわ)じゃないのが少し残念だ。この先、伝説の噺を聞くチャンスがあることを願う。
「どうして茶金なんですか?」
「第一回の落語研究会でやった根多なんだよ」
「そうなんですか、ここ一番の根多なんですね」