リベンジ
金曜日の二十二時頃、A市の市営住宅を見下ろせる場所に一台のセダンが止まってる。煙草の灯りでぼんやりと顔が判る。そう、佐伯博である。市営住宅は四棟からなり、中央には小振りな噴水と砂場、遊具があった。夜なので判らないが、街灯付近に監視カメラは見当たらない。オペラグラスで四階を一棟目から順に入念に灯りのある部屋を見ていった。十一月下旬ともなれば夜はかなり冷え込む、非常用のアルミ素材ブランケットを身体に巻き付け朝を待つ事にする。まだ夜も明けきれぬ五時前に二棟目四階の一室の扉が開き、フード付きパーカーを着た若者が足早に階段をかけ降りて行く。 博はオペラグラスで人相を確認しようとしたが、街灯付近に来るまで判らなかった。街灯に照らされた顔は一瞬だが紛れもなく河田こと渡邉に間違いなかった。堀田の言う事に間違いはなかった。午前中に河田と女の身辺調査を済ませ、堀田を監禁しているアジトに戻るつもりである。午前九時過ぎ、博はスーツに着替え、銀縁の伊達眼鏡を掛けて市営住宅の方へ歩きだした。敷地の中央にある噴水辺りでは四、五人の主婦が井戸端会議に耽っていた。 博は柔らかそうな物腰でその一団に近寄って「私、興信所の佐藤と云う者ですがちょっとお話し伺えませんでしょうか?」 と名刺を差し出しながら声を掛けた。主婦仲間で最高齢と思われる六十代の女が応えた。 「何でしょうか?」「二棟目四階に住まわれている河田敏宏さんについて何かご存知ないですかね」すると先程の女が 「そういえば越して来たのは半年位前だったかしら!? 最初は若夫婦かな?とも思ったんだけど、そうじゃないみたい」 「と、言いますと?」 「だって荷物の搬入だって無いし、挨拶回りにも来やしないし」続けて、三十代の女も「あの男、ここに来てから一ヶ月以上仕事してないみたいだし、昼間から下の公園で遊んでいる子供を只、眺めて過ごしてたりするからキモイんだよね」「河田さんは今も無職なんですか?」 「最近になってようやく、近くの漁港で働き始めたみたいだよ」「ところで、一緒にいる女っていうのは?」「町の繁華街の一軒のスナックで働いてるらしいよ」 「彼女の名前は判りますか?」「名前まで知らないけど、二十歳そこそこの派手な娘さんだよ」博は礼を言って、諭吉を三枚主婦の一団に渡すと、足早に車に戻り、漁港へと車を走らせ河田の動向を探る事にした。河田は漁船からの荷卸しと仕分け作業を主体に仕事をしていた。仲間内には中国人らしき男が四、五人いた。襲うにしてもリスクが有り過ぎる。博は一旦、繁華街に行き胃袋を満たす為、一軒の食堂に入り、レバニラ炒め、餃子、野菜炒めの定食を平らげた。再び市営住宅に戻り、夕方の出勤時間の近づいた女の尾行する準備に取り掛かる事にした。博は車内でスーツから作業着に着替え、河田の部屋を監視していた。時計の針が五時半を過ぎた頃、一台のタクシーが団地の敷地内に入り静かに止まった。クラクションが軽く二度鳴り、程なくして河田の部屋の扉が開き、ここの住人に不釣り合いな格好の女が出て来た。白のロングコートに茶髪のロングで巻き髪、真っ赤なピンヒールといった出で立ちであった。女は足早に階段を駆け下りタクシーの後部座席に乗込んだ。博はタクシーとの間に三台の車を挟み尾行して行く。 街の繁華街まで三十分足らずの距離だ。タクシーは繁華街の入口付近で止まり、多くのテナントが入った間口の狭いビルに女は入っていった。 博も急いで後を追い、すぐ脇のエレベーターに目をやると五階で止まり、店は「?揚羽」という名だった。 まだ開店前の為、時間潰しを兼ねて繁華街を散策してみる。その時、前方からやけに騒がしい若者の一団がやって来た。その中に見覚えのある顔があった。河田だ、爬虫類の様な顔で華奢な体格は、見た目には幼児性愛者には見えない。
昼間、漁港で見た中国人らしき若者たちと一緒だった。今日はまだ襲うつもりは無く、動向を探れれば良かった。博は再び踵を返し、女が入っていったビルへと向い、エレベーターに乗った。五階で降りると似通った店が六軒程有り「?揚羽」の扉を開け、入って行く。店内の様子は思った程暗くは無く、テーブル席が四つとカウンターが有り、博より若い連中が三人居てホステスと談笑している。
博はカウンターの端に腰掛けると水割りを注文した。後ろの男たちの会話が一瞬途切れ、静寂が訪れた。明らかに雰囲気の違いを感じてか男らの鋭い視線を背中に浴びる。カウンターの中にいるのが河田の女らしかった。年齢的にはおそらく雇われママであろうと想われる。「お客さん、この辺りの人じゃないですよね」「お仕事関係でこちらへ来られたんですか?」 「工作機械の据え付けの為にね、一週間くらいはこちらに居るつもりなんだよ」