輝きの人
その後、僕は兄ちゃんと会っていない時期の事について喋りまくった。学校の事、両親の事、好きな女の子の話までしてしまったのは迂闊だった。兄ちゃんとは去年の夏、ようやく住所を突き止めた時以来会っていない。ウチを出た後、僕の両親はいたる所で兄ちゃんの事を仇のように罵りまわっていたのだ。居場所を見つけてやって、援助をしてくれるなんて、あり得ない。つまり、兄ちゃんはその間は完全に自給自足の生活だったに違いない。でも、その時の事だけは今になっても話してはくれない。思い出すのも辛い、とかそういう事だろうなと僕は思っている。初めて、ショップでカメラを睨んでいた兄ちゃんと再会した時は、ちょっと泣きそうになったな。それ程、兄ちゃんを好きだったという事もないけど、やっぱり兄弟なんだ。離れ離れになれば、寂しいモンなんだって思った。
「でも、お前がウチを出たいなんて言うとはね。俺は、テルは順調に大学行って、医者になって、父さんの跡を継ぐんだろうなって思ってたんだ。」
「うん。僕も思ってた。このままずっと勉強ばっかして、なんとなく大学行って、なんとなく父さんの跡を継ぐんだろうって。兄ちゃんがウチ出ていくまではね。」
「やっぱりさ、おんなじ血が流れてんだよ。俺とテルには。”自由の血”だな。」
「”自由の血”!?何その恥ずかしい言い回し。いまどき中二でも、そんな事言わないよ。」
「うるせ。そんな事言ったら余計恥ずいだろが。」
そう言って兄ちゃんは僕に拙いプロレス技を浴びせてきた。僕も負けじと応戦したが、胴体を足で挟まれて締め付けられる羽目になってしまった。下らない事を言いあってるのはわかってた。でも、それ以上にこのやりとりが楽しくて、止める事なんてできそうにない。どんなに真面目な話題を振っても最後は絶対二人で笑ってる。これが、兄ちゃんのいい所。兄ちゃんと話してて、空気が重くなった試しがない。だから、ついつい話が長引くんだ。
不意に時計が気になって腕時計を見ようと思ったが手も巻き込まれてしまっていた。だから、容赦無く締め付けて来る兄ちゃんの足技を受けながらも、どうにか携帯を手に取ると画面を開いた。
やばい。マジでやばい。
「兄ちゃん、僕、もう行かないと間に合わない。だから、早くこの足ほどけよ。」
「何に間に合わねーの?」
こっちは必死に兄ちゃんの足から逃れようとしているのに、全く緩める気配が無い。
「塾サボって来てんだから、あんまり帰るの遅かったら怪しがられるだろ。だから、これ緩めてってば。」
「へい、へい。」
やっとこさ兄ちゃんの足から解き放たれると、急いでメッセンジャーを肩にかける。それでもって、玄関に飛び込んでスニーカーに足を捻じ込む。こういう時に限って靴を履くのに手間取ったりする。
「夏休みになったら、来いよ。」
足元から目を上げると、いつの間にか兄ちゃんがカメラを顔の前にかざして立っていた。
「はい、チーズ。」
これを反射って言うのかな。手を止めてカメラ向かってピースをしてる。余裕が無いのは分かってたけど、何故かポーズしていた。
「いや、こんな事してる場合じゃ...」
「バイトの先輩から聞いたんだけど、人ってカメラ向けられると絶対何かリアクションするモンなんだって。」
「あ、そう。そんじゃ、僕もう行くから。夏休みまであと1週間ちょっとだからね。家に居てよ。」
「あ、そう、はひどくない?ま、いいけど。何日からこっちに来んの?」
「7月17日。忘れないでよ。」
そう言い残すと、僕は錆びかけのドアを軋ませながら、押し開けて外に飛び出した。ここに来た時よりもさらに夜は深く広がり、蛙の声が漆黒の空に吸い込まれる。今日は一人では寂しい、二人なら暑い夜だ。
階段を素早く走り下りて、最後の2、3段を飛び越えた。コンクリートの上に立つと、上の方から声が追いかけてきた。
「スリしてる事、バレんなよー。」
兄ちゃんにスリの事を教えたのは間違いだったかもしれないな。でも、夜は僕をいつもより大きくしてくれる。大声で兄ちゃんに返事が出来たのが、その証拠。
「バレる訳ないじゃん。」
駅に向かって疾走しながら叫んだ、暗闇に響き渡る僕の声。兄ちゃんに届いたかどうかはわからないけど、届いてなくても構わない。新しい居場所を見つけた。今はそれだけで、口元から笑みが広がる。僕は、今はまだ羽ばたく事は出来ない。でも、少なくとも助走ぐらいはしている筈だ。