輝きの人
僕は目の前の卓袱台に載っているカメラに目をやる。ウチにあった時よりも、(変な言い方だけど)成長した姿に見える。きっと大事にされてるんだな。
「まあまあ、かな。さっき言ったバイトってのも写真関係のものなんだぜ。ちょっとは前進してる。うん。」
兄ちゃんは、自分の言ったことに自分で頷きながら愛用のカメラを手に取った。何故かわからないけど、カメラを持った兄ちゃんはちょっとカッコよく見える。
不思議だ。
いつもは馬鹿な事ばっかり言って、だらしなくて、ウチを出たから金も無い。なのにカメラを大事に真剣に扱う時だけ、どんな俳優やアイドルよりも光ってる。そんな気がする。自分の進む道をひたすら歩く兄ちゃんと、ただ飼い馴らされているだけの僕には、目には見えなくても確かに違うモノがある。
正直、とてつもなく兄ちゃんが羨ましくて、妬ましい。
「あのさ、兄ちゃんがウチ出てったのって高校上がったばっかの時だったっけ?」
「いかにも。そんとき未来の天才カメラマンは飛び立った。」
「誰の事?」
「もちろん、俺。」
兄ちゃんは自慢げに自分を指さして、ニヤニヤしているが、ウチを出て行こうとした時の兄ちゃんは触れば噛みつきそうな程、ギラギラしてた。
僕は、兄ちゃんがウチを出てった時の事はこれから先も忘れはしないだろうと確信していた。だって、それ程鮮烈な一人立ちだった。少なくとも僕はそう思う。
一階のリビングで怒鳴り合う声。その頃の父さんと兄ちゃんの間では小さな紛争は、ちょくちょくあったものの大きな戦争に発展する事はなかった。しかし、あの日は違った。怒鳴り合いが終わると、兄ちゃんは僕の隣の自室に飛び込むと同時に、ドアが憤怒の音を立てて閉まった。そして数分後、たった一つぼろぼろのスーツケースを引きずり、首には漆黒のカメラをぶら下げた兄ちゃんは階段をガタンガタンと降りて、玄関に向かった。その時、父さんと母さんが物音を聞きつけ、兄ちゃんの前に立ちはだかった。父さんはでっぷり太ったお腹の脇に両手を当てて、母さんは自分の出来うる限り最大限恐い顔をして見せた。
「行かせないぞ。ヨウイチ。そんな下らんモノ、捨ててしまえ!」
父さんは兄ちゃんの宝物を指さした。しかし、兄ちゃんはその、今まで見たことも無い程にキレている父さんを無表情で押しやってスニーカーを履いた。
そして、そのあと僕の心に一生残るであろう言葉を口にして、ウチを去った。
「俺、誰かの為に一生、生きるなんて、それが例え父さんや母さんでも、できないと思う。」
途切れ途切れに残したその言葉は、階段からその出来事の一部始終を見ていた僕の体の芯を鷲掴みにした。自分と同じ思いを兄ちゃんが抱いていたからだ。ただ、それを口に出す程の勇気が僕にはなかった。ただ、それだけの違い。その後両親は頭を抱える日が多くなり、自然と家族の空気が重くなっていった。ついにある日、母親は僕に、お兄ちゃんはいなかったと思いなさい、そう言った。その時僕は中学三年生だった。
僕はその瞬間、自分の内である決意を固めた。そして、今日はそれを兄ちゃんに打ち明ける為に、ここにやって来たのだ。
「ねぇ、兄ちゃん。」
「何だよ。」
声に真剣さが滲み出てしまったからか、そう言ってメンテナンスをしていたカメラから目を上げる。僕の目を真っ直ぐに見る兄ちゃんはウチを出る前と何も変わってない。やばい。言おうと思ってた事がその目に吸い込まれてしまいそうで口に出せない。でも、言わなくちゃ。
「僕、ウチを出たいんだ。」
一息に言いきってしまうと、何だか馬鹿っぽいセリフに聞こえた。
すると、兄ちゃんは僕の言葉がむずかゆいみたいに頭を掻いた。
「なあ。俺の真似しても、仕方ねぇぞ。俺は別に不良ぶる為に家出た訳じゃ...」
「違うよ!別に、ワルぶる為にウチを出ようなんて言ってるんじゃなくて。」
勘違いされるなんて。普通、そんな風には思わないだろ。さっきまで早鐘を打っていた心臓が徐々に落ち着きを取り戻していく。
「へっ?じゃ何で?」
兄ちゃんは目を真ん丸にして、尋ねた。僕の口はまたコントロールを失って喋り始める。
「もう、父さんと母さんに流されて生きていたくないから。」
今度は、まだ喋り続けそうな口を制御する。これ以上、口から溢れ出ようとする感情の波を流し続ければ、もう後には退けなくなる。情けないけど、僕はまだ心のどこかで、こんな事を言うべきじゃなかったとうずくまっていた。
兄ちゃんを見ると、部屋の隅っこに落ちているテレビのリモコンを、どうにか取ろうと寝転がって手を伸ばしていた。初めて兄ちゃんに真面目な話をする人はムカつくかもしれないが、この行動は決して相手の話を聞き流している訳ではない。むしろ、大真面目に耳を傾けている。
こっちを見ない。これは兄ちゃんの昔からの癖で、真剣な話をする時は俯いたり、何かをしながら片手間に会話する。本人曰く、こっ恥ずかしい、って言ってたな。
「俺は、自分が勉強ができなかったからウチを出た訳じゃねえ。ホントにやりたくて堪らないモノが出来たからウチを出たんだ。お前、やりたい事見つけたか?」
その言葉は僕の痛い所を確実に突いていた。僕は、今まで両親に流され生きてきたのだ。やりたい事なんて見つけるどころか、探してさえいない。だからそんな自分から逃れたい。
でも、結局それは、ただの親に対する反発、自分一人の我がままだ。
言葉が喉につまったみたいで、喋れない。そのつまった言葉の重さで顔が下を向き、俯いてしまう。
さっき言った事、取り消そう。ウチを出るなんて嘘だよ。そう言って自分の覚悟を閉じ込めよう。今までも、遊びたい気持ち、逃げ出したい気持ち、全部閉じ込めて父さんや母さんの望むままに歩かされてきたんだ。これからだってきっと我慢できる。
「兄ちゃん、やっぱり僕...」
「ま、いいんじゃないの。」
兄ちゃんの声が、突然耳に入り込んできた。
顔を上げると、兄ちゃんは茶卓の前に座ってテレビのリモコンを手にしていた。テレビを付けるとチャンネルを次々、変え始めた。僕は、バラエティー、ドラマ、ニュースと目まぐるしく変わっていく画面を見つめて、兄ちゃんの次の言葉を待った。
「やりたい事、見つけろよ。俺も手伝ってやるからさ。」
僕は自分を認められたという安堵と、何故か強力な助っ人を得た気分になった。
「ただ、ウチを出るなら一つ覚悟しなくちゃならんものがある。それは・・・」
僕は背筋がピンと伸びた気がした。兄ちゃんは僕の顔の真ん前まで畳の上をにじり寄ってきて、真剣そうに僕の両目を見つめて言った。
「ビンボーになること。」
兄ちゃんの顔越しには最近流行の若手芸人がコントを繰り広げている。
「ぷっ。」
吹き出してしまった。コントではなく兄ちゃんの言葉に。
「なんだよ。笑うなよ。深刻な事なんだぜ。」
「兄ちゃんが人の顔見て、深刻な事言える訳ないじゃん。」
「た、たしかに。」
そして、二人は顔を見合わせて、盛大に吹き出した。腹の底から、笑いと一緒に何か温かいモノが込み上げてきた。兄弟二人で、爆笑するなんて何年ぶりだろう。全く久しぶりだ。