愛シテル
ユアンがりく也を見た。薄闇の中に、見開かれた瞳の青い色が浮かぶ。その涙にほだされたから喜ぶことを言ったわけではなく、以前、彼が言ったことを引用したに過ぎない。
ユアンは握ったりく也の手を引き寄せ、愛惜しむように頬ずりした。声にならない呟きで、りく也の名を繰り返す。
「…君は私のことなんか…忘れてしまうのかな…?」
「それほど薄情じゃない」
「…それは、…友人として?」
色々な人間の死を見てきた。医師として患者の、子供として母親の。前者は通り過ぎる死で、後者は憶えておくに値しない死。どちらもりく也を『りく也』として求めなかった。だが、この『死』は違う。
「俺として」
ユアンの青い瞳が揺れた。薬の副作用は涙腺にも影響している。出辛い状態にある涙が、また一筋、先の跡を辿った。
「もう休め。疲れるから。俺も戻るよ」
何度も携帯電話がポケットの中で震えている。急患か指示かで、ERが呼んでいるのだ。手を離してくれと、りく也は付け加えた。今度はおとなしくユアンもそれに従った。離れて行くりく也の手を、彼が目で追うのがわかった。
「…キスしてくれないか、リクヤ?」
消え入りそうな声だった。
「何?」
「キスして、リクヤ…、この世の…名残に」
りく也の右の眉が、ピクリと上がった。
「生憎、後ろ向きなヤツにくれてやるキスは、持ち合わせていない」
「リクヤ…」
「何が『この世の名残に』、だ。俺がうんざりするほど、余命を伸ばす努力をするって言うならまだしも」
「リクヤ…?」
「どうなんだ?」
どうして、そんなことを言ったのか、りく也は自分でもわからなかった。身体中に転移した癌細胞で、見る度に衰弱して行くユアンに、多少なりとも同情しているのか? 余命を伸ばす努力など、され尽している。それでも、気力だけは保って欲しかった。自信に溢れ、生気に満ちたユアン・グリフィスを、りく也はもう一度見たいのかも知れない。
「生きたい」
泣き笑いのような表情を浮かべながらも、ハッキリとした口調でユアンが答える。
「よし」
りく也は眼鏡を外す。それからユアンの唇に自分のそれを重ねた。
彼の左腕が、りく也の肩に回される。
彼の唇は乾いていたが、歯列を割って触れる舌は、温かかった。
口内炎で痛むだろうに、それを感じさせず、深い口づけを求め続け、りく也もまた応えた。
左肩をユアンの手が掴み、いつの間にか抱きこまれる。彼の右腕の点滴が気になり、りく也は身動きが取れない。
少しでも他に気をやり、唇を離す素振りを見せると、ユアンはりく也の髪に手を差し入れ、それを許さなかった。
情熱的なキスに息が足りず、眩暈がする。
やせ細った病人の腕から逃れることなど容易い。しかし、りく也はそうはしなかった。黙って、彼の口づけを受け続ける。
握り締めていた眼鏡が手から滑り落ち、床で軽い音をたてた。
「…リクヤ」
ユアンの唇がりく也の耳朶を啄む。
どれくらい経ったのか――永遠とも思えたキスからやっと唇は解放されたが、身体はそのままユアンの腕の中に残った。
「何だ?」
「『I Love You』は、日本語で何と言うの?」
長いキスの余韻で、ユアンの胸が上下しているのが、りく也にも伝わる。
「…『アイシテル』だ」
「I(アイ)…?」
「ア・イ・シ・テ・ル」
「アイ…スィ、ル?」
「ア・イ・シ・テ・ル」
「…アイ、シィ、テル?」
「アイシテル」
「…もう一度」
「アイシテル」
「…もう一度」
彼の腕に力が入り、
「アイシテル」
「…もう一度…、言って、リクヤ…」
吐息が耳にかかる。
とくん、とくん…と感じる鼓動は、どちらのものなのだろう?
「アイシテル」
「アイ…シテル」
「愛シテル」
ユアンが眠って、りく也は病室を出た。時計を見ると午前四時になろうとしていた。
特別室の前のソファには、ジェフリー・ジョーンズが座っていた。いつからそこにいたのかは知れないが、ジロリとりく也は一瞥くれる。そんな視線を彼は気にする風でもなく、腰を上げた。
「ERが君を探していたぞ。呼び出しにも出ないって。まあ、居所はわかっていたから、僕が来たわけだけど」
ニヤニヤとジェフリーが笑った。同期の中では出世頭で、心身ともに貫禄がついた彼だが、何か含みがある時の笑みには、少年っぽさが残る。
「じゃあ、サッサと呼びに入ればよかったじゃないか?」
「そこまで野暮じゃないさ」
「ふん」
りく也が鼻を鳴らしたところで、二人は並んで歩き出した。
「賭けは僕の勝ちだな」
下りのボタンを押して、エレベーターが来るのを待つ。一階から上がってくる軌跡を目で追いながら、ジェフリーが言った。
「賭け?」
「そ。『望みなし』、『デート止まり』、『ベッドイン』」
と、彼は片目を瞑って見せた。りく也は呆れて息を吐く。
ジェフリーの言う『賭け』とは、彼らがまだレジデントだった頃に行われたものだ。りく也に対するユアンのご執心は、医学生だった臨床ローテーションの時から知られていて、マクレインのE.R.のレジデンシィ・プログラムを選択してりく也が戻ってきたのを機に、誰からともなく面白がって始めたのだった。ジェフリーは常に一番人気のない『ベッドイン』に賭けていたが、勿論そんな賭けなどとっくに無効で、覚えている人間もいるかどうかなほど、大昔の思い出となっていた。
「あれから何年、経ってると思っているんだ? だいたい、ベッドインってのに相当するのか?」
対象にされていたりく也でさえ、忘れていた賭けだ。
「僕の中じゃ有効なんだよ。ちゃんと恋人のキスもしていたじゃないか?」
彼の訳知り顔の笑みに、りく也の頬が熱を帯び、口元がへの字に曲がった――いったい、いつ覗いたのだろうか?
「怒んなさんな。…まあ、そうだな、願望と歯止めもあったかな」
「願望と歯止め?」
「さっさと誰かのものになって欲しいって言うね。叶わないと思うくらい、君の事を愛している誰かに」
エレベーターがその階に着いて、ジェフリーが呆けているりく也の肩をポンと叩き、先に乗り込んだ。
「どう言う意味だ?」
閉まりかけるドアの中に、りく也は慌てて滑り込む。
「何で四回も離婚したと思ってるんだ」
ジェフリーは肩を竦めた。
「これが微妙でね、自分でも恋かどうかはわからない。ただ、ワイフとの結婚生活よりも、君との仕事を最優先していることに気づいたんだ。『賭け』が念頭にあるから、不思議と冷静でいられたってわけ。勝った今は、清清しい気持ちさ。これで君は一生彼のものだし」
「何、言ってる?」
「恋愛感情の有無はともかく、思い出には勝てないだろうからね」
カラカラと彼は笑った。りく也はと言えば、どう表情を作っていいかわからない。
会話が途切れたまま、エレベーターは一階に着いた。
「さ、戦場に着いた。僕の本音は賭けに勝った時点で、もう過去のことになったから、意識しないでくれよ。いいコンビでやって行こう、親友」
そう言うとジェフリーは乗り込んだ時同様、先に降りて行く。スタッフや患者が行きかう中に、彼の姿は紛れてしまった。