愛シテル
この地区に入っている人間は、大体がそうだ。感情を押し殺して、自分の任務をこなす。それでないと、精神が保たない。
「そうだね。確かに、笑っていられる所じゃない。でも、押し殺した中にも隠せない表情はある。それは怒りであったり、悲しみであったり、何らかの感情がにじみ出ているけど、君にはそれが見られない。何も感じていないだろう?」
「だからって、何で『忘れられずに立ち止まっている』につながるんです?」
ムッとりく也の唇は引き結ばれた。
「それに何も感じないわけがない」
「では何を感じているか、言ってごらん」
「何であなたに?」
「反論するからには、根拠を示さないと。ね?」
彼の口調はまるでりく也を子供扱いだ。りく也の口は更にへの字になる。
この現状を見て、何も感じないわけがない。罪のない人間が犠牲になっているのだ。マクレインのERに、毎日のように出入りしていた救命士や消防士も命を落とした。失われた命には、家族も友人もいる。それら全ての怒りと悲しみが、ここには溢れている。
「でもそれは、君の感情じゃない。 ただの場景描写だ」
りく也が羅列した言葉に、彼は肯定しなかった。
「God bless Americaでも歌えばいいんですか?」
血縁者を亡くしたわけじゃない。特別親しい知人が巻き込まれたわけでもない。頭に血を昇らせて報復を叫ぶほど、この国に心酔もしていない。りく也と同じ立場で今回の事件を見ている人間は、少なくないはずだ。
シニカルな切り替えしに、彼はくつくつと笑った。
「ああ、失礼。さっきのはジョークだと思って流してくれないかな」
「ジョーク?」
「反応が見たかっただけなんだ。少し話しをしたいのに、君はすぐに帰ろうとするから」
悪戯っぽく片目を瞑って見せる彼に、りく也は怒る気力を削がれ、つられて笑うしかなかった。
「そうそう、顔の筋肉を緩めた方がいいよ。いつもポーカー・フェイスじゃ疲れるだろう?」
りく也は観念して、しばらく彼の話に付き合うことにした。つられて笑っただけだったが、彼の言う通り、何だか肩の力が抜けたような気がする。それに既視感はまだ続いていて、なぜそう感じるのか確かめたい気持ちもあった。
「あなたは変わってますね? こんな時に、こんな場所で笑ってる人間の方が少ないですよ」
「こんな時だからこそだよ」
「こんな目に合わされて?」
「汝の敵を愛せよ。神の言葉だ」
「神…ね」
「君は神を信じないのかい?」
「無神論者ですから」
神様なんて信じない――このセリフはどこかで言ったような気がする。彼との会話は以前もどこかで…。ずっとずっと昔だ。りく也は記憶を辿る。辿る傍から彼の声が耳に入り、声は過去へとりく也を誘った。
「憎むだけではね、虚しいだけだ。いくら相手を憎んでも、無かったことにはならないだろう? 憎む気持ちはいつも心の中に辛い記憶を呼び戻す。そうしてまた憎む。繰り返すうちに、感情はそれに囚われる。それ以外のことに気が回らなくなる。人を愛することも、思い遣ることも、笑うことも、泣くことも出来なくなる」
「大げさだ」
「そう? 君はそうではないと言えるかな? 感情をどこかに置き忘れてはいないかい? 彼以外に愛する人を見つけられた? リクヤ?」
不意に名前を呼ばれ、りく也は彼を凝視した。お互い、名乗っていないはずだ。二人ともIDカードを首から下げているが、りく也のものは揺れて邪魔になるので胸ポケットに突っ込まれていたし、彼のそれは煤で汚れて名前が読み取れない。
「あなたは俺のことを知っているんですか?」
りく也は更に見入る――穏やかな笑みを浮かべる、その目を。
「知っているよ、私が誰だか当ててごらん」
後ろへ撫で付けられた髪型に覚えはないが、薄っすらと割れた顎の感じには見覚えがある。こめかみに集中している白髪は、かつては暖かなブラウンではなかったか? 光の加減で緑がかる、髪と同じ色の瞳を、不思議な思いで見たことはなかったろうか?
煤けたIDカードに手を伸ばそうとすると、「ズルはダメだよ」と隠された。その仕草が曖昧な記憶と過去を、やっと結びつける。りく也の口から、名前が零れ出た。
「ドクター・グレイブ…?」
「当たり」
彼の手はまるで子供にするように、りく也の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「リクヤッ!!」
ドアが乱暴に押し開けられる音と同時に、裏返ったテノールが名前を叫ぶ。りく也は飛び起きた。
そこはマクレインのドクター・ラウンジで、カルテ整理の最中に、机に突っ伏して眠ってしまったらしい。少し伸びた前髪をかき上げ、りく也が振り返ると、目の前に胸が迫っていて、次の瞬間にはきつく抱きしめられていた。
「リクヤ、ああ、リクヤ! 無事だったんだね!? 良かった、良かったぁ!」
テリュ・リリュの甘い香りが鼻をつく。りく也は息苦しささえ覚え、ユアン・グリフィスのその長い腕から逃れようとしたが、びくともしない。不意打ちをくらったせいで、身体はしっかりと抱きこまれていたからだ。
りく也が迷惑顔をしていようとも一向にお構い無しで――その表情すら見ようとせず、どれだけ心配していたか、どんなに早くアメリカに戻りたかったかを、ユアンはりく也の耳元で捲くし立てた。
ユアン・グリフィスはリサイタルの為、八月からロンドンとパリに滞在していた。九月の半ばにはアメリカに戻る予定だったのだが、『あの日』の余波に足止めされて、最悪の月が終わる今日、やっと帰国出来たらしい。
「電話にも出ないし、ここにかけても現場に出ているって言うし。ハミルトンに見に行かせたけど、会えなかったって言うじゃないか。もう、気が気じゃなかったよ」
電話に出なかったのは、ほとんど自宅アパートに戻らなかったからだ。事件以降、ロウアー・マンハッタンに出ずっぱりで、マクレインにもほとんど仮眠室に寝に戻るだけの日が続いていた。その間、ユアンのバトラーであるハミルトンが様子を何度か見に来ていたと聞いてはいたが、結局、直接会うことはなかった。スタッフが「ドクター・ナカハラは無事」と伝えてくれたので、あえて連絡も取らなかったのだ。
「ハミルトンにはちゃんと無事だと伝えてもらったぞ」
「そんなの、僕を安心させる嘘かも知れないじゃないか! 自分の目で君の姿を見るまで、信じられなかったよ。ああ、神様、ありがとうございます…、リクヤをお護りく…」
最後の方はすすり泣きと混ざって、言葉になっていない。りく也の存在を実感したいかのように、ユアンの腕には一層、力がこもった。
焼け焦げた匂いを含む土埃と死臭に慣れ、火のない煙草の葉に無理やり日常を求めたりく也の鼻腔を、甘く上品なコロンの香りが癒す――ここしばらく忘れていた人肌の温もりを、抱きしめられた肩や背中で思い出した。
「いい加減、離せよ」
辛うじて自由の利く左手で、ユアンの背中を軽く小突く。しかし彼はりく也を抱きしめたまま首を振った。
「…しばらく、このままでいさせてよ、リクヤ。腕の中の君が現実だって思えるまで」
「何、クサイこと言ってやがる。蹴り、入れられたいのか?」
「いやだ、離さない」
全体重がのしかかり、りく也が腰掛ける椅子は傾いだ。