キミガ、イナイ。
そうだ。あのとき、朋子先輩は「だから」と続けた。
ぼくと紗江がつきあい出したって知って、それでも変わらず接してくれて。たぶん、朋子先輩はぼくの気持ちに気づいてた。そしてたぶん、ぼくのこと、嫌いじゃなかった。
でも「だから」と声を強めた。
「だから、弘輝くん。ちゃんと紗江ちゃんを守るんだよ。紗江ちゃんはわたしと違って地震が苦手なんだからね」
弾かれたように顔をあげる。
そうだ。そうだ、そうだ、そうだ。
朋子先輩、ありがとう。紗江は地震が苦手だった。震度1の地震でも青い顔をしてぼくを見た。こわいのは理屈じゃないもん、と困った顔をした。
腕をふりあげる。地面を蹴る。誰かが止める声がした。それをふりきってぼくは校門を飛び出した。
紗江。どこだ。汗が頬を伝う。振り返るたびに汗が飛び散る。全力で走る。必死であたりを見まわす。崩れた塀。切れた電線。火事だろうか。空が赤くなっている。
「紗江っ」
がむしゃらに走って息が切れて身体中が熱くて、どこにいるのかもよくわからなくなって。アテがあるのかないのかもわからなくなって。
不意に白い壁が視界に入った。
白塗りの壁にグレーがかった木の扉──。
「……カフェ?」
クラスの女子の声を思い出す。
「そのカフェに入った人は──別人みたいになるんだって」
ざわりと身体が震える。紗江に何かあったら。
近づこうとしたそのときだ。
扉が開いた。
小柄な女の子が出てくる。
制服の女子高生。見覚えのあるマフラー。
だけど雰囲気が違った。最後に見た紗江じゃない。
あれは一年前、朋子先輩に無邪気にまとわりついていたころの紗江。
紗江がぼくに顔をむける。驚いたような嬉しそうな顔つきになり。
ぼくの頭は真っ白になる。
音が消えた。身体が震える。紗江の顔しか見えなくなる。
カフェで何があったのかとか。事件や事故にまきこまれていたのかとか。
急にいなくなるなんてとか。返事もしないなんてとか。
だけどそれは多分ぼくのせいで。いやもう絶対ぼくのせいで。
紗江とつきあっているのに、ぼくは朋子先輩のことばっかりで。
ならぼくはどうすればいいのかとか。どうすべきなのかとか──。
そういうことが、どうでもよくなる。
手をのばす。力いっぱい紗江の腕を引く。涙声になる。
「無事で、よかった」
愛とか、恋とか。よくわからない。だけど、これだけはいえる。
君がいるだけでこんなに世界は違う。
いるだけでよかったんだ。
だから。どうか。もう。どこにも。
言葉にならない思いが胸をしめつけ、ぼくは彼女を抱きしめた。
(了)