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黒いチューリップ 12

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 駐車場でフォルクス・ワーゲンから降りる時に、さすがにローデンストックのサングラスは外す。
 職員室には当直の教師とクラブ活動の顧問ら数人がいたが、教頭先生の姿もあった。みんなが普段とは違う久美子の格好に一瞬だが驚いた様子を見せた。
 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』と、あれほど言っておきながら教頭先生が学校に来ている。
 意外な感じはしなかった。これで重要な何か隠していると確信した。高校生だった木村優子に鏡を渡したのも違いないだろう。久美子の不安が増して行く。
 自宅に持ち帰って整理した書類の束を机の引き出しにしまって鍵を掛けると、すぐに二年B組の教室へと向かった。少し怖い。出来たら一人では行きたくなかった。安藤先生と一緒だったら良かったのにと思う。
 彼女とは連絡が取れないままだ。したがって加納久美子の手に鏡はない。黒川拓磨と対峙するのに唯一の武器だというのに。
 校舎は静まり返っていた。階段を上る久美子の上履きにしているパンプスの軽い足音しか聞こえない。何かが起こりそうな気配など全くなさそうだが、不気味だ。
 三階の教室すべてのドアが開いていた。ひとつ一つをチェックしていく。二年B組の教室にも誰一人いなかった。窓から入る日光が眩しくて、その明るさで少し不安が和らぐ。
 いつもと違うところは何もなさそうだ。ウソの情報を掴まされたのかもしれない。
 ホッとすると同時に精神的な疲れがドッと出てくる。心配して日曜日に学校へ足を運んだ自分がバカみたいだ。すぐにも自宅へ帰りたい。
 『ミスター・ムーンライト』
 慌てた。二階まで階段を降りているところで携帯電話の着信音が鳴る。静まり返ったところに、いきなりジョン・レノンの声だ。この着信音は良くない。早く変えよう。波多野刑事からだった。「もしもし」
 「加納先生、おはようございます。いま学校ですか」
「おはようございます。そうです」
「何か変わったことがありますか」
「いいえ、ないです。教室には誰もいませんでした」
「そうですか。それなら良かった。じゃあ、我々の思い過ごしだったのかな」
「そうかもしれません。ご心配をさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いや、そんな事はありませんよ。用心に越したことはありませんから。加納先生、これからどうされますか」
「帰ろうと思っています。ところで孝行くんは家にいるんですか」
「ええ、居ます。風邪をひいたらしくて、ぐっすり寝てますよ」
「あら、それは〡〡」
「大丈夫ですよ、ご心配なく。たぶん月曜日には学校へ行けるでしょう」
「そうですか」
「もし何かありましたら、連絡して下さい。いつでも結構です」
「わかりました。ありがとうございます」
「それで、あの……加納先生」
「はい」
「……あ、いえ。すいません、何でもありません。失礼します」
「はい、失礼します」
 加納久美子は携帯電話を閉じると再び階段を下り始めた。波多野刑事には勇気づけられる。安藤先生と連絡が取れない今となっては彼しか頼れる人はいない。
 さて家に帰ったら何をすべきか。掃除に洗濯、それに買い物。休日といっても普段できない日常の雑務で半日は潰れてしまう。
 なんとか時間を作って、夜は久しぶりにレンタル・ビデオを借りて気分転換を図りたいと思った。『タイタニック』が見たかった。きっと泣くだろう。だから絶対に一人で見ようと決めていた。

   75

 何事もなさそうだ。波多野刑事は安心した。不安が無くなると加納先生に対する想いが蘇ってくる。素敵な女性だ。もっと長く話していたかった。
 とっさに何か他に話題を探そうとしたが見つからず、不自然な形で電話を切ることになった。なんてカッコ悪いことを……。
 どうにかして食事に誘えないかと考えてしまう。その反面、オレみたいな子持ちの刑事なんか相手にするもんかと、勝手に落ち込んだりする。その繰り返しだ。オレは非番で彼女も休み。しかし今日という日は、いくら何でもまずい。誘う勇気もないし、心の片隅には交通事故で亡くなった妻に対する罪意識もあった。
 じっとしていられなくて、息子の部屋へ行って様子を見てこようと立ち上がる。携帯電話は離さない。いつ署から呼び出しがあるか分からないからだ。
 孝行が羨ましい。あいつは毎日、加納先生に会えるんだ。もしオレが生徒だったら絶対に一日も学校を休むものか。一生懸命に英語を勉強して加納先生から褒めてもらいたい。
 女性に憧れるなんてことは、ここ数年なかった。もう二度とないと思っていた。それが今は恋する高校生の気分だ。恥かしくて、とても人には言えたもんじゃない。
 息子の部屋のドアを開けたところで自分の目を疑う。ベッドには誰も寝ていなかった。波多野正樹の浮いた思いが一瞬で消えて無くなった。
 トイレにでも行ったか。それならいいが。しかし刑事という職業で培ってきた危険に対する第六感が、激しく警告音を鳴らし始めていた。息子を探しにトイレには行かず、波多野は玄関へと急いだ。
 「おい、どうした」
 波多野は一瞬、躊躇う。玄関に立っていた息子の後ろ姿が別人に見えたからだ。いつもと違う。へんに肩がいかつい。レスラーかボクサーのような体つきになっている。ただし着ている服は、いつも身につけている白いトレーナーと黒のジーパンだった。「どこへ行くんだ? 寝てなくていいのか、お前」
「……」
 返事がない。振り返ろうともしない。「おい、孝行」  
 あまりの反応の無さに聞こえないのかと思い、近づいて息子の肩に手を掛けた。やっと振り向いてくれたその顔は、今まで見たことが無い表情をしていた。「……」波多野は言葉を失う。
 その目は赤く充血して頬と口は怒りに歪んでいた。
 どうしたんだ、と声を掛けようとしたところで、避ける間もなく拳が飛んできた。まさか息子に殴られるとは思ってもいない。不意を突かれた波多野の顔面を直撃した。「ぐうっ」
 目の前が真っ暗になり、足元はフラつく。体勢を整えようとするが、次の一撃を右の脇腹に食らう。息を吐き出し、後は呼吸が出来ない。その場に倒れこんだ。
 普段は弱々しく見えた息子に、これほどの力があるとは思わなかった。「た、たか……おいっ」
 立ち上がれそうにない。それでも相手の動きを読んだ。まだ攻撃してくる。波多野は身体を回転させて、踏みつけようとした息子の足をかわす。「やめろっ」
 空を切って床を蹴ったその大きな音から、このままでは殺されるかもしれないと悟った。応戦するしかない。でも相手は息子で、怪我はさせたくない。手加減しながらの戦いになる。簡単ではなさそうだ。
 「孝行っ」姿こそ息子だが、何かに取り憑かれたように凶暴になっていた。学校へ行こうとしているのは間違いなさそうだ。だが絶対に行かせてはならない。
 そうだっ。
 加納先生が危ない、と波多野は気づく。学校でも何かが起きているはずだ。助けに行きたいが、今は息子をなんとかしないと--。

   76

 「加納先生」
 ドキッ。
 一階まで降りて職員室へ戻ろうとした加納久美子は後ろから声を掛けられた。びっくりして思わず身を竦めてしまう。振り向くと男子トイレの前に教頭先生が立っていた。恥かしい。「あ、は、はい」
作品名:黒いチューリップ 12 作家名:城山晴彦