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黒いチューリップ 11

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 やっぱり死んでいるのか。ヤバいことになりそうな雰囲気だ。この扉の向こうで奴が首を吊っていたりして。そんなもの目にしたくなかった。ここから早く帰りたい。高木は無意識にドアノブに手を掛けた。しっかり施錠されていることを願いながら。そしたら学校に戻って、彼は留守でしたと校長に報告できる。
 「ああっ」意に反してドアノブが回った。そして力も入れていないのにドアが勝手に開く。なんてこった。「……」安堵。口の中に溜まった唾を飲み込む。ロープにぶら下がって息絶えた奴の姿はなかった。
 「西--、あうっ」名前を呼ぼうとしたが最後まで言えない。中から強烈な異臭がしてきたからだ。高木は手で口と鼻を押さえた。
それに無数の黒い虫が飛んでいた。「ひゃーっ」
 驚きのあまり後ろに引っくり返った。恐怖が高木を襲う。金縛りに遭ったみたいに動けない。全身から流れる冷や汗。どきどきと心臓は大きな音を立てて鼓動した。上手く呼吸ができない。く、苦しい。
 ただの虫ではなかった。二十九年前、高木が中学二年の時に、仲間四人と一緒に忍び込んだ空き家で見た、あの虫だった。ハエのように黒く、目は悪意に満ちてギラギラと赤い。そして背中には黄色いラインが走っていた。
 その二日後に高木は高円寺から君津市へ引っ越す。仲間の四人とは、それっきり連絡が取れなくなった。一体、何が起きたのか分からない。でも良くない事が田口と寺島、それに菅原と市川の四人に起きたのは間違いなさそうだ。
 思い出したくない事実だった。忘れることは不可能なので、ずっと頭の隅に閉じ込めていた。この虫が再び現れたことで嫌な記憶が鮮明に蘇ってしまう。
 一刻も早く、この場から立ち去らないと。高木は這いつくばって階段まで辿り着く。手摺を掴んで、なんとか立ち上がる。腰が抜けたみたいだった。下半身がガクガクした。ゆっくり慎重に足を出して階段を降りていく。もう少しで地面というところだった、足がもつれて踏み外してしまう。
 丁度その時だ、片手にカップヌードルを持って階段を上がろうとする若い女が現れた。あまりに突然で避ける余裕なんかない。ほとんどラクビーのタックルみたいな感じでぶつかった。二人とも勢いよく地面に倒れこむ。鈍い音。カップヌードルが女の手から離れて転がっていく。
 普段だったら、深々と謝って落とした物を拾ってやったはずだろう。恐怖に怯えた高木将人は自分のことしか考えられなかった。乗ってきた軽自動車へ急ぐ。イグニッションを回してエンジンをオンにすると、何もなかったかのように車道へ出た。安全運転を心がけないと。こんな所で事故は起こしたくない。対向車を認めたので左側に寄らなければならなかった。早く学校へ戻りたい一心だ。落ちていたカップヌードルを前輪が踏み潰すのを知っていながらスピードは落とさなかった。
 一瞬、若い女がどうなっているか、それを確かめようと階段の方へ目を向けた。えっ、マジか? 落ちた状態のままで動いていなかった。やばい。でも軽自動車から降りることはしない。高木将人はアクセルを踏み込む。そうすれば抱え込んだ全てのトラブルから解放されるような気がして。
 ハンドルを持つ手の震えは収まらない。高木は今後のことを考えた。戻ったら校長には、こういうつもりだ。「彼は留守でした。また明日にでも行ってみます」と。安心して当分は何も言ってこないだろう。そのうち忘れてくれたら申し分ない。
 だけど二度と西山のアパートへ行くつもりはなかった。絶対にイヤだ。あんな恐ろしい目に遭うのは二度と御免だ。
 どうやら加納久美子の言った通りらしい。二十九年前に仲間と空き家に忍び込んで、自分が持ち去った鏡と、黒川拓磨は何か関係があるのだ。また今の君津南中学、二年B組で起きている不可解な出来事も同じように。
 高木将人は身が縮まる思いだった。自分に大きく責任がありそうだ。周囲から追及されて、槍玉に挙げられる可能性があった。
 あの時は、まだ十四歳の少年だ。遊び半分の気持ちで鏡を持ち帰っただけなのに。勘弁してほしい。
 こうなったら絶対に鏡には関与していないと言い張るしかない。認めたら身の破滅だ。ただでも問題を抱えて辛い思いをしているのに。
 三月十三日の土曜日が心配になってきた。何か大変なことが起きるんだろうか。起きてほしくないが。高木は自分も学校にいるべきだと考えた。何かが起きそうなら、それを阻止したい。これ以上、君津南中学に事件が起きてはならない。
作品名:黒いチューリップ 11 作家名:城山晴彦