黒いチューリップ 10
55
「先生」
「西山先生っ」
「どうしたんですか?」
誰かが自分を呼んでいた。女子生徒の声だった。西山は目を覚ました。頭痛はするが周りが見えた。どのくらい意識を失っていたんだろうか。焦点が合うと声の主は手塚奈々だと分かった。いつもと変わらず綺麗な顔だ。良かった、助かった。
「あわ、……わう、う、う」
「え?」
「あう、……あい、い、い」駄目だ、喋れない。舌に感覚が戻っていなかった。
「なんですか?」
「あう、あひ、あひひ……」職員室へ行って誰かを呼んでほしい、と伝えたいのだが上手くいかない。
「先生、笑っているんですか?」
「あふ、ひひ、……ひふ」ちっ、違う。この状況で笑っていられるか、バカ。
言葉を出そうと必死になるほど、口の中に唾が溢れた。悲しい。こっちの要求を、なんとか女子生徒が悟ってくれないだろうか。
涎を床に落とそうと顔を横に向けた時だった。手塚奈々の悩ましい太股と白いパンティに包まれた股間が、間近で西山の目に飛び込んできた。ひやっ。倒れていた教師を心配して反射的に、スカートが短いにも関わらず腰を屈めた結果だった。
なんてラッキーなんだ。しかし……、残念なことに、まったく性的な興奮を覚えなかった。毒虫に刺されて感覚が麻痺していた。体が衰弱して、そんな気持ちにならない。も、もったいない。
「西山先生っ」
「あうっ」あっ、まずい。こっちの視線に気づかれたらしい。女子生徒は急に立ち上がってスカートを両手で押さえた。
「先生のエッチ」
「はっ、はう」違う、違うんだ。
「仮病まで使って、あたしのスカートの中を見たかったんだ」
「ひい、ひ、……ひい」誤解だ。本当に体調が悪くて苦しんでいるんだから。
「お金を払わないでタダで見ようとしたなんて、信じられない」
「う、……うう」必死で首を振って否定した。
「加納先生に言いつけます。本当に男の人って、みんながエッチで困っちゃう」
「あっ、あう」ま、待ってくれ。
手塚奈々は踝を返すと、さっさと立ち去っていく。振り向きもしない。助けてもらえなかった。絶望感が全身を包む。西山明弘は力が抜けていくのが分かった。疲労困憊だ。また目を閉じるしかなかった。
56
「う、うう」西山明弘は意識を取り戻した。
周りに目にやると、二年B組の教室に一人だった。上半身を起こす。頭痛は消えていた。「バカやろう」悪態を口に出してみた。喋れた。
良かった。舌の感覚が戻っている。少し安心した。しかし凄まじい毒を持つ虫だった。あれはマムシかコブラ並みだ。蜂なんかじゃない。何だろう。正体が分からないので不安が残った。このまま何もなく体が回復してくれたらいいが。
それにしても冷たい生徒たちだった。黒川拓磨も手塚奈々も、学年主任のオレを見捨てて教室から出て行ってしまう。誰か手の空いた教師を見つけて呼ぶでもない。知らんぷりだ。信じられない。
覚えていろよ。これは、お前たちの成績に反映させるからな。内申書にも影響するように働きかけてやろう。
西山明弘は執念深い男だった。やられたら絶対にやり返す。酷い仕打ちをされて、そのままで終わらすことはなかった。
一方的に付き合いを止めて別れたいと言ってきた女には、それまでに渡したプレゼントの代金に高い利息を付けて請求してやった。金額が千葉銀行の通帳に振り込まれると、デートで利用したレストランのレシートを全て送りつけて食事代も追加請求した。それでも腹の虫が収まらなかったので、女がノイローゼになって入院するまで無言電話を掛け続けた。あの生徒二人にも、オレの恐ろしさ分からせてやりたい。
西山明弘は立ち上がった。よろけたのは少しだけだ。普通に歩ける。気づくと倒れていた場所が濡れていた。何でだ? 汗か? それとも誰かがオレを起こそうとして水でも掛けたのか。
体は大丈夫なようだった。だけど用心に越したことはない。炎症を抑える薬でもつけておこうかと、保健室へ行くことに決めた。
あそこにいる女、正式には養護教諭と言うらしいが、東条朱里を西山明弘は嫌っていた。
最初に見た時は、『いい女が保健室にもいるじゃないか』と思えたのだが、今は無視する存在だ。うわべだけの挨拶しかしてやらない。
痩せて背が高く、スタイルは抜群。ここまでだったら好みの女として、西山の恋人候補リストに上位ランクインしたはずだった。
顔は細面でショートカットのヘアスタイルが似合う。ボーイッシュでセクシーだったが、なぜか小悪魔的な感じが目立つ。それに人を見下したような話し方をした。気が強そうで、サディステックな雰囲気を漂わす。地元選出の代議士の愛人になっているらしい、と噂を聞くと、なるほどそうかと素直に納得できた。何を考えているのか分からない。確かなのはひとつ、女の頭にあるのが決していい事じゃなくて、絶対に悪い事だろうと言えた。
「あら、珍しい。西山先生、どうされました?」ノックをして保健室に入ると、東条朱里は椅子から立ち上がって迎えてくれた。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「たった今そこで、蜂みたいな虫に刺されてしまったんです」
「え、この時期にですか?」
「はい」
「どこを刺されました? 見せて下さい」
「ここです」西山はベッドの端に座ると、左足を持ち上げて靴下を脱いだ。さっきよりも赤く腫れていた。
「あら、本当だ。痛みますか?」
「ええ。少しズキズキしてます」
「頭痛や眩暈とかは?」
「ちょっとしているかな」
この女、東条朱里に二年B組の教室で失神したことは言いたくなかった。好き勝手に話を大袈裟にして学校中に広めそうで怖い。
「もしかしてアナフィラキシーかしら」
「えっ?」なんて言った、この女。「アナル、……フェラチ、……何ですか、それ?」
「アナフィラキシーですっ」
「す、すいません」なんだ、聞き間違いだった。虫に刺されて、アダルト・ビデオのタイトル用語を聞かされる訳がなかった。
「アレルギー症状です。鉢に刺されたのが二度目だったりすると発症します。吐き気や悪寒、冷や汗とか眩暈、それに耳鳴りや全身の震えに襲われるんです。死に至る確率も高いですから、気をつけないと」
「……」東条朱里の説明を聞いて、どんどん不安になっていく西山明弘だった。すべてが当てはまっている。
「毒性の強いスズメ蜂みたいなやつでしたか?」
「いいえ、ミツバチよりか少し大きい程度でした。黒くて、そいつの背中には--」
「え、……もしかして黄色いラインですか?」
「そうです」なんだ知っているのか。よかった。それなら治療方法にも詳しいはずだ。そう期待した。
「……」
ところがだ、目が合ったままで東条朱里は何も言わない。その顔が一瞬だが小悪魔みたいな笑みに歪んだのは気のせいだろうか。
「どんな虫なのか知っているんですか?」相手の無言が不自然だった。虫の説明が続くのかと思っていたのに。仕方なく西山は自分から訊いた。
「いいえ」
「え?」理解できない。「と、東条先生」そんな、冗談でしょう?
「わたしは知りません。まったく昆虫には詳しくないので」
「待ってください。いま背中に黄色いラインが、って言ったじゃないですか」そんなバカな。
「先生」
「西山先生っ」
「どうしたんですか?」
誰かが自分を呼んでいた。女子生徒の声だった。西山は目を覚ました。頭痛はするが周りが見えた。どのくらい意識を失っていたんだろうか。焦点が合うと声の主は手塚奈々だと分かった。いつもと変わらず綺麗な顔だ。良かった、助かった。
「あわ、……わう、う、う」
「え?」
「あう、……あい、い、い」駄目だ、喋れない。舌に感覚が戻っていなかった。
「なんですか?」
「あう、あひ、あひひ……」職員室へ行って誰かを呼んでほしい、と伝えたいのだが上手くいかない。
「先生、笑っているんですか?」
「あふ、ひひ、……ひふ」ちっ、違う。この状況で笑っていられるか、バカ。
言葉を出そうと必死になるほど、口の中に唾が溢れた。悲しい。こっちの要求を、なんとか女子生徒が悟ってくれないだろうか。
涎を床に落とそうと顔を横に向けた時だった。手塚奈々の悩ましい太股と白いパンティに包まれた股間が、間近で西山の目に飛び込んできた。ひやっ。倒れていた教師を心配して反射的に、スカートが短いにも関わらず腰を屈めた結果だった。
なんてラッキーなんだ。しかし……、残念なことに、まったく性的な興奮を覚えなかった。毒虫に刺されて感覚が麻痺していた。体が衰弱して、そんな気持ちにならない。も、もったいない。
「西山先生っ」
「あうっ」あっ、まずい。こっちの視線に気づかれたらしい。女子生徒は急に立ち上がってスカートを両手で押さえた。
「先生のエッチ」
「はっ、はう」違う、違うんだ。
「仮病まで使って、あたしのスカートの中を見たかったんだ」
「ひい、ひ、……ひい」誤解だ。本当に体調が悪くて苦しんでいるんだから。
「お金を払わないでタダで見ようとしたなんて、信じられない」
「う、……うう」必死で首を振って否定した。
「加納先生に言いつけます。本当に男の人って、みんながエッチで困っちゃう」
「あっ、あう」ま、待ってくれ。
手塚奈々は踝を返すと、さっさと立ち去っていく。振り向きもしない。助けてもらえなかった。絶望感が全身を包む。西山明弘は力が抜けていくのが分かった。疲労困憊だ。また目を閉じるしかなかった。
56
「う、うう」西山明弘は意識を取り戻した。
周りに目にやると、二年B組の教室に一人だった。上半身を起こす。頭痛は消えていた。「バカやろう」悪態を口に出してみた。喋れた。
良かった。舌の感覚が戻っている。少し安心した。しかし凄まじい毒を持つ虫だった。あれはマムシかコブラ並みだ。蜂なんかじゃない。何だろう。正体が分からないので不安が残った。このまま何もなく体が回復してくれたらいいが。
それにしても冷たい生徒たちだった。黒川拓磨も手塚奈々も、学年主任のオレを見捨てて教室から出て行ってしまう。誰か手の空いた教師を見つけて呼ぶでもない。知らんぷりだ。信じられない。
覚えていろよ。これは、お前たちの成績に反映させるからな。内申書にも影響するように働きかけてやろう。
西山明弘は執念深い男だった。やられたら絶対にやり返す。酷い仕打ちをされて、そのままで終わらすことはなかった。
一方的に付き合いを止めて別れたいと言ってきた女には、それまでに渡したプレゼントの代金に高い利息を付けて請求してやった。金額が千葉銀行の通帳に振り込まれると、デートで利用したレストランのレシートを全て送りつけて食事代も追加請求した。それでも腹の虫が収まらなかったので、女がノイローゼになって入院するまで無言電話を掛け続けた。あの生徒二人にも、オレの恐ろしさ分からせてやりたい。
西山明弘は立ち上がった。よろけたのは少しだけだ。普通に歩ける。気づくと倒れていた場所が濡れていた。何でだ? 汗か? それとも誰かがオレを起こそうとして水でも掛けたのか。
体は大丈夫なようだった。だけど用心に越したことはない。炎症を抑える薬でもつけておこうかと、保健室へ行くことに決めた。
あそこにいる女、正式には養護教諭と言うらしいが、東条朱里を西山明弘は嫌っていた。
最初に見た時は、『いい女が保健室にもいるじゃないか』と思えたのだが、今は無視する存在だ。うわべだけの挨拶しかしてやらない。
痩せて背が高く、スタイルは抜群。ここまでだったら好みの女として、西山の恋人候補リストに上位ランクインしたはずだった。
顔は細面でショートカットのヘアスタイルが似合う。ボーイッシュでセクシーだったが、なぜか小悪魔的な感じが目立つ。それに人を見下したような話し方をした。気が強そうで、サディステックな雰囲気を漂わす。地元選出の代議士の愛人になっているらしい、と噂を聞くと、なるほどそうかと素直に納得できた。何を考えているのか分からない。確かなのはひとつ、女の頭にあるのが決していい事じゃなくて、絶対に悪い事だろうと言えた。
「あら、珍しい。西山先生、どうされました?」ノックをして保健室に入ると、東条朱里は椅子から立ち上がって迎えてくれた。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「たった今そこで、蜂みたいな虫に刺されてしまったんです」
「え、この時期にですか?」
「はい」
「どこを刺されました? 見せて下さい」
「ここです」西山はベッドの端に座ると、左足を持ち上げて靴下を脱いだ。さっきよりも赤く腫れていた。
「あら、本当だ。痛みますか?」
「ええ。少しズキズキしてます」
「頭痛や眩暈とかは?」
「ちょっとしているかな」
この女、東条朱里に二年B組の教室で失神したことは言いたくなかった。好き勝手に話を大袈裟にして学校中に広めそうで怖い。
「もしかしてアナフィラキシーかしら」
「えっ?」なんて言った、この女。「アナル、……フェラチ、……何ですか、それ?」
「アナフィラキシーですっ」
「す、すいません」なんだ、聞き間違いだった。虫に刺されて、アダルト・ビデオのタイトル用語を聞かされる訳がなかった。
「アレルギー症状です。鉢に刺されたのが二度目だったりすると発症します。吐き気や悪寒、冷や汗とか眩暈、それに耳鳴りや全身の震えに襲われるんです。死に至る確率も高いですから、気をつけないと」
「……」東条朱里の説明を聞いて、どんどん不安になっていく西山明弘だった。すべてが当てはまっている。
「毒性の強いスズメ蜂みたいなやつでしたか?」
「いいえ、ミツバチよりか少し大きい程度でした。黒くて、そいつの背中には--」
「え、……もしかして黄色いラインですか?」
「そうです」なんだ知っているのか。よかった。それなら治療方法にも詳しいはずだ。そう期待した。
「……」
ところがだ、目が合ったままで東条朱里は何も言わない。その顔が一瞬だが小悪魔みたいな笑みに歪んだのは気のせいだろうか。
「どんな虫なのか知っているんですか?」相手の無言が不自然だった。虫の説明が続くのかと思っていたのに。仕方なく西山は自分から訊いた。
「いいえ」
「え?」理解できない。「と、東条先生」そんな、冗談でしょう?
「わたしは知りません。まったく昆虫には詳しくないので」
「待ってください。いま背中に黄色いラインが、って言ったじゃないですか」そんなバカな。
作品名:黒いチューリップ 10 作家名:城山晴彦