黒いチューリップ 09
『西山先生、ありがとう御座います。彼と上手くコミュニケーションが取れるようになりました。さすが主任です。お礼と言っては何ですが、今度いつか食事を御馳走させて下さい』
こんな言葉が加納先生の口から聞けたら大成功だ。オレのレガシィで迎えにいって、ディナーの後は夜のドライブと洒落込みたい。鹿野山に上って、二人で君津の夜景でも見に行こうか。考えると、どんどん気持ちがウキウキしてくる。西山明弘は、やる気満々だった。
「黒川、そこに座りなさい」
「何ですか?」
「まあ、いいから。体育の森山先生には許可はもらってある。少しぐらい授業に遅れても文句は言われない。安心しろ」
体育の授業が始まる前の休み時間だった。二年B組の教室には西山と黒川拓磨の二人だけだ。手塚奈々と話した時と同じ所で、机を間に挟んで向かい合って椅子に腰を下ろした。
今度は時間が掛からない。すぐに終わる。生徒に向かって話し出そうとしたところだった、ブーンと一匹の虫が西山の目の前を飛んで横切った。「なんだ、ハエか?」
それにしては少し大きいみたいだ。黒いが、そいつの背中に黄色いラインが走っている。見たこともない、コスタリカにでも生息していそうな虫だった。この寒い季節に、ちょっと信じられない。
「ハエじゃありません」と、黒川拓磨。
「何ていう虫か知っているのか? お前は」知ったような生徒の答えが意外だった。
「説明すれば長くなります。放っておきましょう」
「何だと」人を小馬鹿にしたような口振りにムッときた。オレを誰だと思っているんだ。「あっ」
再び、あの虫が優雅に目の前を横切った。今度は顔に近すぎて、思わず後ろに仰け反った。その慌てた教師の様を見て、黒川拓磨の顔に笑みが浮かんだ。てめえっ。怒りが込み上げた。その態度は何だ。どうしてやろうか?
空中に浮かぶ、あの黒い虫が目に入った。また、こっちへ飛んでこようとしていた。オレを、おちょくっているのか。
「西山先生、手を出さないほうがいい。大変なことになりますから」
「うるさいっ。黙ってろ」
虫が近づいてきて射程距離に入ったところで、西山は右手を勢いよく振り下ろした。命中。叩かれて虫は床に落ちた。寒いから動きが鈍いのだろう、簡単に殺せた。
「ああ、やっちゃった」
「どうってことない、ただのハエだ」
「ハエじゃありません」
「うるさい。そんな事はどうでもいい。お前に話があるんだ」
「オレに?」
「そうだ、お前にだ」寛容な気持ちは消え失せた。このクソ生意気な小僧を、どう懲らしめてやろうかという思いしかない。手塚奈々の時と同じような結果になりそうだと考えたが、怒りが理性を凌駕した。
「体育の授業に遅れたくないんで、手っ取り早く頼むぜ」
「なに」この野郎、このオレに向かってタメ口を利きやがった。
「落ち着けって、西山」
「くっ、……」今度は呼び捨てにしやがった。怒りで身体が震えてきた。
「西山、身の程を考えなきゃダメだろう。お前なんかには加納先生も安藤先生も無理だぜ。所詮は高嶺の花なのさ」
「なんだとっ」
「分からねえのかな、その歳にもなって。お前は大家の娘を相手にしてりゃ、それでいいのさ。お似合いのカップルだぜ。あっはは」
「どっ、どうして--」何で、このガキがそれを知っているんだ。
「まったく、お前には呆れるぜ。バーミヤンの割引券なんかで女を誘い出すんだからな。せこいったらありゃしねえぜ。まあ、そんな誘いに乗る女の方もそれなりだから丁度いいのかな」
「この野郎っ、もう許さん。懲らしめてやる」
西山明弘は湯気が立ちそうなくらいに全身が熱くなった。このガキを虫と同じ目に遭わせてやる。叩き潰す。泣いて土下座して謝るまでボコボコにしてやろう。
『失礼な口を利いて申し訳ありませんでした。これからは西山先生様と呼ばせて頂きます。許して下さい』
このぐらいの謝罪の言葉が、クソ小僧の口から出てくるまで殴り続けてやろう。
もう殺したって構わないかもしれない。こいつがオレ様に向かって生意気な口を利いたのが悪いんだ。殺した口実は後から考えればいい。オレ様の偉大さを分からせてやりたい。
すでに佐野隼人が死んでいるんだ。もう一人ぐらい増えたって大したことはない。『きっと後追い自殺じゃないですか』、それで説明がつく。
「お前、覚悟しろ。しっかり後悔させてやるからな」
一発目のパンチを浴びせてやろうと、右の拳を高く掲げたところだった。左足の脛に違和感を覚えた。何かに針を刺された感じだ。
「うぐっ」それが直ぐに、強力なドリルで足に穴を開けられるような痛みに変わった。ど、どうした?
目の前に座る生徒を殴るどころじゃなくなった。その場に西山は屈むと、急いでズボンの裾を捲り上げた。「ああっ」
自分の目を疑う。殺したはずの虫が灰色のソックスの上に止まっていたのだ。こ、こいつに刺されたらしい。
手で掃おうとしたが今度は素早く飛び立ってしまう。畜生っ。ソックスを下ろすと皮膚が赤く爛れていた。「おい、あれに刺されたみたいだ」
黒川拓磨を見ると、椅子に座ったまま窓を通して校庭の様子を眺めながら、左手の人差し指を鼻の穴に突っ込んでいた。こっちを向いてもいなかった。ふざけた態度だ。少しは教師を心配--。「げえっ。げ、げ……」
刺されたところから激痛が全身に広がろうとしていた。どっ、毒だ。吐き気。ひどい悪寒。冷や汗。めまい。耳鳴り。全身の震え。すべてが一気に襲ってきた。声を出したくても、口が麻痺して喋れない。「あう、あ、ああ……」
誰かを呼んでくれ。助けてくれ。生徒に言いたかったが舌が回らない。その場に倒れこんだ。息が満足に出来ない。苦しい。意識が朦朧してきた。目の前が真っ暗になる直前に黒川拓磨の言葉が耳に届く。
「体育の授業が始まってるんで、そろそろオレは行こうかな」
作品名:黒いチューリップ 09 作家名:城山晴彦