黒いチューリップ 08
ぎゃっ、気持ち悪い。自分の身体じゃなかった。南米のアマゾン奥地なんかに生息するトカゲの背中と同じ。その部分は足の踵みたいに皮膚が硬くなっていて、皮がボロボロと剥ける。どうして?
こんな姿を誰かに見せるなんてできない。この黒いブツブツを自分で治してからじゃないと病院へは行けない。
誰からも可愛いと幼少の頃からずっと言われ続けてきた。そのプライドが、醜い身体を他人に見せることを許さない。
少女には考えがあった。母親が庭で栽培しているアロエだ。これで湿布をしよう。何年か前の夏に酷い日焼けをして、アロエで治した経験があった。きっと、これが効く。その日の晩から始めた。
視力と聴力、味覚を取り戻すためにミキサーでアロエ・ジュースを作った。身体の内部からも病気を退治するのだ。
効果があったのか一時的に回復に向う。だが、しばらくすると黒いブツブツが脇腹から乳房の方へと範囲を広げ始めた。これは拙かった。オッパイは女性としての象徴だ。なんとしても守りたい。湿布の回数を増やして対抗した。そのうち、モノを噛むと歯茎から出血するようになる。
「お姉ちゃん、口から血が出てるよ」
妹と二人でリンゴを食べていて知らされた。「やだ、唇を噛んじゃったみたい。お願いだから、パパとママには言わないで」と、誤魔化した。
ときどき目眩もして、疲れやすくなった。病魔との闘いは続く。強い精神力が少女を支えた。
夕飯の前には必ずシャワーを浴びる。シャンプーをしていて違和感を覚えた。手に何かが絡んでいる。目を開けてみると両手に黒い髪が大量に撒きついていた。肩まで伸ばした自慢のストレート・へアだった。「あ、ううっ」
少女は嗚咽を漏らすと、濡れたタイルの上に泣き崩れた。病魔との闘いが終わった瞬間だ。もう敗北を認めるしかなかった。
36
サッカー部の練習が終わって鮎川信也は帰宅の途中だった。市役所前の道路を大和田へ向かって自転車を漕いでいた。
いつも部室を出る時は、「じゃあな」とか「また明日」とか鶴岡の奴とは必ず言葉を交わすのだが、この日はそれがなかった。あの野郎、トイレにでも行ったか。
同じサッカー部員だが、二人の仲は特別なものがあった。左のミッド・フィルダーという一つのポジションを争うライバルでありながら、ゲーム・メーカーとしての重要な場所を二人で強固なものにしているという自負があった。あのバカで目立ちたがり屋のストライカー、板垣順平を上手く操れるのはオレたち以外にいるもんか、と断言できた。お互いにアドバイスし合い、それを次の試合に生かす。いい関係を保っていた。
帰ったら、そろそろ期末試験の勉強を始めるべきだな。
鮎川信也は今夜の予定を考えた。袖ヶ浦高校への進学を目標にしていて、今の成績では少し難しいと分かっていた。
君津駅へ通じる交差点を通り過ぎて数メートル進んだところで、前方に小学生の女の子が運転する自転車が見えた。かなり遅い。追い越そうとしてスピードを上げた。
本人は気づいていなかったが、鮎川信也の後方では六十歳の大工が運転するスズキの軽トラックが走っていた。
大工は知り合いの漁師から譲り受けたダイハツの軽トラックが錆ついて使えなくなり、数週間前に板垣モータースでスズキの同じタイプに買い換えたばかりだった。中古だったからなのか、すぐに電気系統のトラブルがあった。クレームで部品を交換したが、雨の日にエンジンが掛かり難いのは変わらない。この一件で大切に乗ろうという気持ちは消えて、また今度も粗悪品を掴まされたかもしれないと考えていた。
長く使っていた家のボイラーも壊れそうだった。ブラウン管のテレビは日に何度も勝手に電源が落ちた。こいつも寿命らしい。『水戸黄門』では、お銀の入浴シーンを安心して見ていられなかった。次々に悪いことが起きる。最も頭を悩ましているのはサラ金からの三十万円の借金だ。借りて直ぐに返すつもりだったのが、大きな取引先だった工務店の社長が夜逃げをして入金の予定がなくなってしまったのだ。
どうすりゃいいんだ。家賃とか光熱費の引き落としがあるから京葉銀行の預金は下ろせなかった。思いつく唯一の解決策は、何も考えずに好きな酒を飲んでぐっすり眠ることだ。
人生の師としてクレージー・キャッツの植木等を仰ぐ。代表曲の『無責任数え唄 だまって俺についてこい』は自分の為に歌ってくれているとしか思えなかった。『銭のない奴は俺んとこへ来い。俺もないけど心配するな。そのうち何とかなるだろう』を座右の銘にしている。『分かっちゃいるけど止められない』も好きな言葉だった。明日になれば、きっと何とかなっているもんさ。それで六十歳まで生きてきた。
景気のいい時は、常連として通っていたフィリピン・パブのホステスとねんごろになったこともあった。名前はマリアだ。酔っ払って誰かと大喧嘩して留置所で朝を迎えた風吹ジュンといった印象の女だった。プロポーションが抜群なのは言うまでもない。だけど金の切れ目が縁の切れ目で、仕事の量が少なくなると、白いBMWの新車を乗り回す若い男に口説かれて、あっさりと大工の元を去って行く。今どこでどうしているんだろうか、と夜に一人でいると恋しく思う。
前を走る中学生の自転車が、その更に前の自転車を追い越そうとしているのが見えた。間隔は十分にあった。このまま走り続けて大丈夫という認識だった。
鮎川信也が女の子の自転車を通り過ぎようと右に出たところで、道路にはコンクリートの劣化による窪みができていた。その時だった、前輪のタイヤは空気が抜けていることに気づく。えっ、パンクか? ハンドルのコントロールが利かない。タイヤに緩衝機能がなくて窪みの段差の衝撃をまともに食らう。バランスを失った。転倒する。やばいっ。目の前が真っ暗になった。
突然、走っていた前の自転車が倒れた。高齢の大工は咄嗟に急ブレーキの動作に入った。運転歴は長い。条件反射だ。しかし六十歳という年齢に加えて運動不足、それに長年の喫煙と深酒の習慣が反射神経を衰えさせていた。大工の脳はアクセル・ペダルに乗せた右足を、左側のブレーキ・ペダルに移して、強く踏み込むように指示を出した。しかし筋力が弱った右足は二つの行程を一度に命令されても処理できない。行動に移せたのは足を乗せているペダルを、そのまま思いっきり強く踏み込むことだった。
大工は意思に反して、軽トラックが急にスピードを上げたので、慌てた。どっ、どうした? パニックに陥った。このままでは転倒した中学生を轢いてしまう。思いっきりハンドルを右に切った。なんとか避けられたと思ったが、左のタイヤが何かを乗り上げた振動が運転席に伝わる。
男子中学生の左足の踵がタイヤに潰された。叫び声は出ない。恐怖が痛みを感じさせなくしていた。真横を軽トラックが猛スピードで走り過ぎて反対車線に飛び出す。大音響。目の前で対向車と正面衝突した。
作品名:黒いチューリップ 08 作家名:城山晴彦