黒いチューリップ 08
34
あんな事で本当に佐久間渚の下着が手に入るのだろうか。秋山聡史は転校生の口車に乗ってバカなことをしたという後悔と、もう是が非でも欲しい気持ちで苦しんでいた。
「なあ、いつ手に入るんだ。どうやって?」
黒川拓磨が一人でいる時は近づいて何度も訊く。答えはいつも同じで、「もう少し待て」だった。それを顔に笑みを浮かべながら言う。
こっちは真剣なのに、だ。
オレを手玉に取っているのか。そんなに長く待っていられるもんか。オレは早く欲しいんだ。もどかしくて、もどかしくて怒りが募ってくる。
よし。今週中に何も進展がなければ、あいつの家に火を放ってやろう。秋山聡史は決めた。放火の計画を練ることで気が紛れるはずだ。まず1﹒5リットルのペット・ボトルに、たっぷり灯油を入れた。次に奴の家を見つけないといけない。しかしだ、あいつがどこに住んでいるのか誰も知らなかった。みんなと仲良さそうにしているが、そんなには親しくないらしい。転校生だから学年の始めに配られる生徒名簿にも乗っていない。これは問題だった。下校のときに、隠れて後をつけるしかないか。でも見つかったらマズいことになりそうだ。
放火を決める最終期限だった金曜日の朝だった。奴の方からやってきた。すまない、あれは冗談だった、と謝罪するのかと思った。
でも許す気は全くない。どんなに謝られても許してやらない。金を請求する。損害賠償だ。下着が欲しいなんて、あんなに恥ずかしいことを紙に書かされたんだ、タダじゃ済まない。こっちは本当に手に入るんだと、その気になっていた。
いくら請求しよう? 三万か? いや、少な過ぎる。五万だ。それだけあれば怒りは収めてもいい。だけど、しばらくしたら奴の家には放火する。もう計画しちまったんだ、何かを燃やさないと欲求不満になりそうだった。
「秋山くん」
「なんだよ」声は喧嘩腰だ。
「一時間目が終わったら、例の下駄箱の中を見てくれ」
「……」そう言われた時の心の準備をしていなかった。マ、……マジかよ? 何も言えない。ただ奴のニヤッとする顔を見つめるだけだった。ま、待ってくれ。でも言葉になって口から出てこない。
授業は、いつものことだが上の空だ。休み時間のベルが鳴ったら急いで教室を出て、下駄箱の中を調べに行きたかった。何度も佐久間渚の方を見た。彼女の様子は、いつもと変わらない。洗濯していない自分の下着を、空いている下駄箱に入れたなんて感じは全くしなかった。やっぱり騙されたのか。もしそうなら黒川拓磨の奴には目に物見せてやる。家に放火するだけじゃない、お前に灯油を掛けて燃やしてやるぜ。
一時間目の授業が終わったとき、秋山聡史は冷静さを取り戻していた。ゆっくり席を立って行動を行動を起こす。早足になることもなく一階まで降りて、落ち着き払って関口貴久が使っていた下駄箱を開けた。
げえっ。
ルピタのビニール袋が入っていた。取り出して中を覗くと、チューリップ柄の模様が付いた小さな布が見えた。佐久間渚の下着に違いなかった。急いで学生服の下に隠す。トイレに行って、ゆっくり確認したい。下駄箱の中に一枚の紙があるのに気づく。それも手にした。たぶん頼み事が書いてあるんだろうと思った。
気が変わった。ルピタの袋に入った佐久間渚の下着を胸に抱えたまま一日を過ごす。感激に浸って、授業中に何度も涙を流しそうになった。洗濯していない下着をくれた佐久間渚と黒川拓磨に感謝。学校ではルピタの袋から取り出して確認するのは止めた。有り得ない事かもしれないが、誰かに見つかって横取りされたら大変だ。家に帰ってから、じっくり汚れ具合を確認しよう。お楽しみだ。
黒川拓磨には頷いて、受け取ったことを伝えた。言葉は交わさない。佐久間渚の様子は、ずっと目で追った。もうオレの女だ、そんな感じがした。しかし彼女は何か元気がない。具合でも悪いのか、と心配になった。
家に帰って落ち着いたところで秋山聡史の感激は頂点に達した。
「おい、マジかよ」思わず声が出た。期待した通りの汚れ具合だった。咄嗟にパンティを顔を押し付けて佐久間渚の香りを嗅ぐ。なんて幸せ。もう死んでもいいぜ。舌を出して触れてみた。これが佐久間渚の味か。うん、悪くない。好きだ。オレ好みの味だ。
母親がルピタのパートから帰ってくるまで秋山聡史は、ずっとチューリップ柄の下着を手にして過ごす。着てみて自分の姿を鏡に映したかったが、それは明日のお楽しみにした。時間がなかった。
ありがとう、佐久間渚。心の中で感謝の言葉を口にした。
これだけの汚れた下着を渡すんだから、恥ずかしかったに違いない。相当な勇気がいったはずだ。言い換えればオレに対する信頼の厚さだろうか。佐野隼人と上手く行っていないことは、あの朝の二人のやり取りを見れば一目瞭然だ。彼女の心の中でオレの株が急上昇しているのは間違いなかった。これからは頻繁に声を掛けて秋山聡史の存在を強くアピールしてやろうじゃないか。
あれ、この紙は? あ、そうだ。
無造作にポケットから取り出して、机の上に置いたままだった一枚の紙に気づく。頼み事だ。すっかり忘れていた。手にして書いてある文を読んだ。
『土屋恵子が学校からいなくなってほしい』
あはっ。思わず笑ってしまう。簡単過ぎるぜ。そんなこと関口貴久の時と同じやり方でやりゃあいいのさ。
丁度よかった。すべてが用意してあった。放火する場所を黒川拓磨の家から土屋恵子の家に変更するだけだ。よし。盛大に燃やしてやろうじゃないか。チューリップ柄の下着を手に入れて、どんなに
オレが喜んでいるか佐久間渚に分かってもらうチャンスだ。
急いでやってやるぜ。それでオレの熱い気持ちが伝わるってもんだ。秋山聡史は、やる気まんまんになった。
35
あれっ。
アイスクリームを食べ始めて、少女はフレーバーを間違えて買ってしまったかと思った。いつものストロベリー味じゃなかった。バニラみたい。手にしたカップのラベルを見る。えっ、びっくり。ストロベリーと、しっかり書かれているのだ。どうして?
それが始まりだった。
いつか治るだろうと軽く考えていたが味覚は元に戻らない。そして黒板の文字が見づらくなっていることに気づく。夜中の二時までベッドの中で、ベスト・オブ・フィル・コリンズのCDを聞いていたからだろうか。そう思って、その夜は早く寝た。少し良くなった感じがした。メガネは掛けたくなかった。自分に似合わないのが分かっていたからだ。父親の目薬を使うことを心掛けた。
学校の帰り道、手塚奈々に追いつかれて後ろから肩を叩かれた。「ずっと呼んでいたのに気づかなかった?」
「え、本当? 分からなかった」そう何気なく笑顔で答えたけど、心に引っ掛かるモノがあった。近ごろ聞こえづらくなっているような気がしていた。「え、いま何て言ったの?」と聞き返す場面が少なくなかった。
味覚の変調に続いて、視力と聴力の低下。これは何か変だ。学校を休んで医者へ行くべきじゃないか。そう決心した翌朝、少女は身体の違和感で目が覚めた。パジャマのボタンを外してみると、左の脇腹一面に多数の小さな黒い発疹ができていた。
あんな事で本当に佐久間渚の下着が手に入るのだろうか。秋山聡史は転校生の口車に乗ってバカなことをしたという後悔と、もう是が非でも欲しい気持ちで苦しんでいた。
「なあ、いつ手に入るんだ。どうやって?」
黒川拓磨が一人でいる時は近づいて何度も訊く。答えはいつも同じで、「もう少し待て」だった。それを顔に笑みを浮かべながら言う。
こっちは真剣なのに、だ。
オレを手玉に取っているのか。そんなに長く待っていられるもんか。オレは早く欲しいんだ。もどかしくて、もどかしくて怒りが募ってくる。
よし。今週中に何も進展がなければ、あいつの家に火を放ってやろう。秋山聡史は決めた。放火の計画を練ることで気が紛れるはずだ。まず1﹒5リットルのペット・ボトルに、たっぷり灯油を入れた。次に奴の家を見つけないといけない。しかしだ、あいつがどこに住んでいるのか誰も知らなかった。みんなと仲良さそうにしているが、そんなには親しくないらしい。転校生だから学年の始めに配られる生徒名簿にも乗っていない。これは問題だった。下校のときに、隠れて後をつけるしかないか。でも見つかったらマズいことになりそうだ。
放火を決める最終期限だった金曜日の朝だった。奴の方からやってきた。すまない、あれは冗談だった、と謝罪するのかと思った。
でも許す気は全くない。どんなに謝られても許してやらない。金を請求する。損害賠償だ。下着が欲しいなんて、あんなに恥ずかしいことを紙に書かされたんだ、タダじゃ済まない。こっちは本当に手に入るんだと、その気になっていた。
いくら請求しよう? 三万か? いや、少な過ぎる。五万だ。それだけあれば怒りは収めてもいい。だけど、しばらくしたら奴の家には放火する。もう計画しちまったんだ、何かを燃やさないと欲求不満になりそうだった。
「秋山くん」
「なんだよ」声は喧嘩腰だ。
「一時間目が終わったら、例の下駄箱の中を見てくれ」
「……」そう言われた時の心の準備をしていなかった。マ、……マジかよ? 何も言えない。ただ奴のニヤッとする顔を見つめるだけだった。ま、待ってくれ。でも言葉になって口から出てこない。
授業は、いつものことだが上の空だ。休み時間のベルが鳴ったら急いで教室を出て、下駄箱の中を調べに行きたかった。何度も佐久間渚の方を見た。彼女の様子は、いつもと変わらない。洗濯していない自分の下着を、空いている下駄箱に入れたなんて感じは全くしなかった。やっぱり騙されたのか。もしそうなら黒川拓磨の奴には目に物見せてやる。家に放火するだけじゃない、お前に灯油を掛けて燃やしてやるぜ。
一時間目の授業が終わったとき、秋山聡史は冷静さを取り戻していた。ゆっくり席を立って行動を行動を起こす。早足になることもなく一階まで降りて、落ち着き払って関口貴久が使っていた下駄箱を開けた。
げえっ。
ルピタのビニール袋が入っていた。取り出して中を覗くと、チューリップ柄の模様が付いた小さな布が見えた。佐久間渚の下着に違いなかった。急いで学生服の下に隠す。トイレに行って、ゆっくり確認したい。下駄箱の中に一枚の紙があるのに気づく。それも手にした。たぶん頼み事が書いてあるんだろうと思った。
気が変わった。ルピタの袋に入った佐久間渚の下着を胸に抱えたまま一日を過ごす。感激に浸って、授業中に何度も涙を流しそうになった。洗濯していない下着をくれた佐久間渚と黒川拓磨に感謝。学校ではルピタの袋から取り出して確認するのは止めた。有り得ない事かもしれないが、誰かに見つかって横取りされたら大変だ。家に帰ってから、じっくり汚れ具合を確認しよう。お楽しみだ。
黒川拓磨には頷いて、受け取ったことを伝えた。言葉は交わさない。佐久間渚の様子は、ずっと目で追った。もうオレの女だ、そんな感じがした。しかし彼女は何か元気がない。具合でも悪いのか、と心配になった。
家に帰って落ち着いたところで秋山聡史の感激は頂点に達した。
「おい、マジかよ」思わず声が出た。期待した通りの汚れ具合だった。咄嗟にパンティを顔を押し付けて佐久間渚の香りを嗅ぐ。なんて幸せ。もう死んでもいいぜ。舌を出して触れてみた。これが佐久間渚の味か。うん、悪くない。好きだ。オレ好みの味だ。
母親がルピタのパートから帰ってくるまで秋山聡史は、ずっとチューリップ柄の下着を手にして過ごす。着てみて自分の姿を鏡に映したかったが、それは明日のお楽しみにした。時間がなかった。
ありがとう、佐久間渚。心の中で感謝の言葉を口にした。
これだけの汚れた下着を渡すんだから、恥ずかしかったに違いない。相当な勇気がいったはずだ。言い換えればオレに対する信頼の厚さだろうか。佐野隼人と上手く行っていないことは、あの朝の二人のやり取りを見れば一目瞭然だ。彼女の心の中でオレの株が急上昇しているのは間違いなかった。これからは頻繁に声を掛けて秋山聡史の存在を強くアピールしてやろうじゃないか。
あれ、この紙は? あ、そうだ。
無造作にポケットから取り出して、机の上に置いたままだった一枚の紙に気づく。頼み事だ。すっかり忘れていた。手にして書いてある文を読んだ。
『土屋恵子が学校からいなくなってほしい』
あはっ。思わず笑ってしまう。簡単過ぎるぜ。そんなこと関口貴久の時と同じやり方でやりゃあいいのさ。
丁度よかった。すべてが用意してあった。放火する場所を黒川拓磨の家から土屋恵子の家に変更するだけだ。よし。盛大に燃やしてやろうじゃないか。チューリップ柄の下着を手に入れて、どんなに
オレが喜んでいるか佐久間渚に分かってもらうチャンスだ。
急いでやってやるぜ。それでオレの熱い気持ちが伝わるってもんだ。秋山聡史は、やる気まんまんになった。
35
あれっ。
アイスクリームを食べ始めて、少女はフレーバーを間違えて買ってしまったかと思った。いつものストロベリー味じゃなかった。バニラみたい。手にしたカップのラベルを見る。えっ、びっくり。ストロベリーと、しっかり書かれているのだ。どうして?
それが始まりだった。
いつか治るだろうと軽く考えていたが味覚は元に戻らない。そして黒板の文字が見づらくなっていることに気づく。夜中の二時までベッドの中で、ベスト・オブ・フィル・コリンズのCDを聞いていたからだろうか。そう思って、その夜は早く寝た。少し良くなった感じがした。メガネは掛けたくなかった。自分に似合わないのが分かっていたからだ。父親の目薬を使うことを心掛けた。
学校の帰り道、手塚奈々に追いつかれて後ろから肩を叩かれた。「ずっと呼んでいたのに気づかなかった?」
「え、本当? 分からなかった」そう何気なく笑顔で答えたけど、心に引っ掛かるモノがあった。近ごろ聞こえづらくなっているような気がしていた。「え、いま何て言ったの?」と聞き返す場面が少なくなかった。
味覚の変調に続いて、視力と聴力の低下。これは何か変だ。学校を休んで医者へ行くべきじゃないか。そう決心した翌朝、少女は身体の違和感で目が覚めた。パジャマのボタンを外してみると、左の脇腹一面に多数の小さな黒い発疹ができていた。
作品名:黒いチューリップ 08 作家名:城山晴彦