黒いチューリップ 07
「どうした?」
「はい。この綺麗なお姉ちゃんなんですが、実はですね……」
恥ずかしい。これまでの経緯を一部始終話し出す。固くて太い、を何度も繰り返して強調するので身が縮む思いだ。
「どれか丁度いいのを選んでくれなんて、こんなに綺麗な女の子から頼まれて面食らっちゃいましたよ。商品を棚に並べていたら、いきなりですから。あっはは」
えっ、そんなこと言ってない。ひ、ひどい。オジさんの嘘つき。
「わかった、そういうことか。お姉ちゃんは澄ました顔をしているけど、隅に置けないな。あははっ。あっけらかんと恥ずかしい事を口にして、オレたちを慌てさせるんだから。よっぽど、そういうことが好きらしい。だけど、こいつの言う通りだ。そのサラミだったら絶対に間違いない」
「……」ああ、困った。この店長っていう人、すごく声が大きい。それで特売でもやっているのかと、まわりに買い物客が集まってくる。麗子は身体を小さくして頷くだけだ。早く解放されたかった。
「どうしました? 万引きですか」紺色の制服姿の警備員だった。人だかりに気づいて急いでやってきたらしい。
「違う、違う。そんなんじゃない。この、お姉ちゃんが……」
ああ、いやだ。また一部始終を話し出す。でも今度は声が大きい店長の番だった。警備員だけじゃない、まわりの人たちにも聞こえるように説明する。
「そりゃあ、お姉ちゃん、サラミしかないよ。なあ、みんな」
警備員のオジさんも納得した。余計な事に、まわりの人たちに同意を求めたりして。
「わかりました、サラミにします。サラミを買います」この場から早く立ち去りたくて篠原麗子は言った。
「そうさ。それが一番いい」と、警備員の人。
すると店長が、「お姉ちゃん、楽しいことに一生懸命な姿勢が気に入った。よっしゃ。十本買ってくれたら一本サービスしよう」、と言い出す。
え、そんなにいらない。一つでいいです。だけど周りの人たちが拍手で応えてしまう。次々と声も上がった。
「さすが店長、太っ腹」
「気前がいいんだから、この人は」
「男の中の男っていうのは、あんたのことだな」
「肉屋の店長にしておくには勿体ないよ」
「良かったねえ、お姉ちゃん」
「あんたが、うらやましい」
「やっぱり可愛い顔してると得だな。ラッキー」
そんなに欲しくありません、と正直に言えない状況に追い込まれていく。「じゃあ、十本買います」としか返事ができなかった。
十一本のサラミを抱えてレジへ向かう篠原麗子の後ろ姿に、店員のオジさんが声を掛けた。「お姉ちゃん、またおいで。いつでも相談に乗るから。えへへ」
Dマーケットの精肉コーナーには、二度と近づきたくないと思った。
こんなことで思っていた以上の出費を余儀なくされた。失敗は許されない。
ここまでが限界。もう義父に身体を触らせたくない。そのためには麗子の方が大胆になるしかない。ジャージを下ろして固くなったモノを外に引っ張り出す。なんなの、これって。気持ち悪いけど我慢して顔を近づけた。相手も下半身を前に突き出してくる。篠原麗子は目を瞑って素早く銜えた。口の中がいっぱいになった。やっぱりサラミやソーセージとは感触が大きく違う。
「う、……う」
さぞかし気持ちいいのだろう。義父は呻き声をもらした。気が緩んでいることは間違いない。ちょっと愉快。だって、これから大変なことになるのも知らないで快楽に身を委ねているんだから。作戦は大成功。黒川くんのアドバイスのお陰だ。お返しに彼の『祈りの会』には出てあげよう。篠原麗子は満身の力を込めて一気に顎を閉じた。
ギャーッ、ギャー、ギャー。
ハゲた中年男の断末魔の叫び声が夜の静けさを破った。最初に反応したのが隣の家で飼われていたイヌたちだ。異様な叫び声に驚いて吼えた。一匹が吼えると二匹目が続き、すぐに大合唱になった。それが他の家で飼われているイヌへと伝染する。君津市中野地区で飼われているイヌすべてに広まるのに時間は掛からなかった。
吼え続けるイヌ、怯えて逃げ回るネコ、それを止めさせようとして慌てる人間たち。各家の中が大混乱。階段から足を踏み外す者、倒れてきたタンスの下敷きになる者、多くの人が怪我をした。何人かは重傷で救急車を呼んだ。地域に住む全員が暖かい布団から叩き出された。パジャマ姿で何事かと玄関の外へ出て行く人も少なくなかった。
「ああ寒い。何なの、これって?」
「いや、知らない」
「起こされちゃったじゃない」
「泥棒か?」
「放火じゃないかしら?」
「テロかもしれないぜ」
「だったら早く君津南中学に避難すべきだ」
しばらくして救急車のサイレンが聞こえてきた。それに合わせてイヌたちは遠吠えに変えた。坂田地区と北子安地区のイヌたちにも届きそうだった。消防車とパトカーも市内を走り回った。すべてが落ち着くまで朝日を待たなければならなかった。
33
「みんな、どうしたの?」朝のホームルーム。ほとんどの生徒が疲れた様子で、担任の加納久美子は驚いて訊いた。
「先生、知らないんですか?」最前列に座る相馬太郎が答えた。知らないのを咎めるような口調だ。
「何があったの?」
「篠原麗子の家で事件があったらしいですよ」
「え、篠原さんの家で?」今朝、彼女の母親から娘の具合が悪いので今日は休ませますと連絡があった。詳しいことは言ってくれなかった。だけど、それがどうして生徒全員に関係しているのか分からない。
「もう町中が大騒ぎで眠れませんでした」新田茂男だった。
「え、そんなに?」加納久美子は視線を相馬太郎から彼に移して応えた。
「救急車とかパトカーが、サイレンを鳴らしながら騒々しく町中を走り回るんです。家の犬が吼えまくって大変でした」
「知らなかった」
作品名:黒いチューリップ 07 作家名:城山晴彦