黒いチューリップ 06
20
「うっ」
鼻血だ。小池和美は用意してあったティシュに急いで手を伸ばした。大好きなチョコレートを食べると、いつも鼻血が出た。
久しぶりだったので大丈夫かなと思ったが、やはりダメだった。チョコレートと鼻血は切っても切れない縁になっているらしい。
痩せたくて、しばらく嗜好品を口にするのは控えていたのだ。その間は欲求不満で気が狂う思いだった。チョコレートのことが、ずっと頭から離れない。
小池和美は身長が百六十八センチで、体重は七十三キロと女子の中では大柄だった。背の高さを低くすることは不可能だが体重は落とせる。このままでは永久にボーイフレンドなんかできそうにないと考えて、ダイエットを始めた。十キロぐらい落とせば痩せた女というイメージを周囲に与えられるんじゃないかと期待した。
二年B組には不思議なくらい綺麗な女の子が集まっていて、おのずと美意識を刺激された。五十嵐香月、佐久間渚、手塚奈々、篠原麗子、奥村真由美の五人だ。タイプは違うが、それぞれが魅力的だった。そして担任の加納久美子先生。こんなに知的で美しい人は見たことがなかった。
当然だがクラスの中で自分の存在は薄い。男の子からは見向きもされない。大柄過ぎて恋愛の対象にならないのだろう。口には出さないが山岸くんたち不良グループが行った、『二年B組女子ベスト・オナペット』に選ばれた女の子たちが羨ましかった。
小池和美は書記というクラスでの役にしがみついていた。三人いる役員の一人だというプライドだ。委員長の古賀千秋に寄り添うことで自分も彼女みたいに頭がいいのだという印象を作りたかった。
彼女が学級委員長に立候補したときに、「あんたは書記をやりなよ」と誘われて和美も手を上げたのだ。
「三年生になったら生徒会長に立候補するからね」が、古賀千秋の口癖だった。つまり、あんたも書記として付いてきなという意味だ。何度も聞かされて、和美もその気になっていく。
今の時点で彼女に対抗できる候補は他にいない。当選は確実だろう。学校の成績は抜群。見事に整理され、マーカーで色刷りされた学習ノートは見たことがなかった。ここまでしないとトップの成績には届かないのか。古賀千秋のノートは完璧すぎて逆に小池和美の学習意欲を削ぐ。あたしには、とても無理だ。
こんな頭のいい子と仲良くなれて嬉しかった。それだけじゃなくて、彼女は均整の取れた身体をしていた。学校では学生服のサイズが合っていないのか、何となく野暮ったい感じがした。それが秀才っぽい雰囲気を醸し出しているけど。
日曜日とかに二人で会うときのカジュアルな格好では、スタイルの良さが際立っていた。ファッションにも詳しい。何を着ても似合いそうだから当然かもしれない。顔立ちだって悪くない。それなりに可愛いかった。『二年B組女子ベスト・オナペット』で五人と争える容姿を持っていた。男子が気づいていないだけだ。それとも頭が良すぎて恋愛の対象としては敬遠してしまうのか。
この子とずっと友達でいたい、そう小池和美は願った。友情を保つ為にと、マクドナルドなんかで食事した時は和美が二人分の代金を支払った。
痩せたくてダイエットを始めたのも、少しでも容姿を彼女に近づけたいからだ。五十嵐香月と佐久間渚の美人二人と仲良くしている山田道子みたいにはなりたくなかった。あれは、ただの引き立て役じゃないの。すっごく惨め。女として生まれてきて、あまりにも情けない。本人は頭が悪いから気づいていないのだろうけど。
二十キロぐらい体重を落としたかった。そうすれば斜め四十五度から鏡に映った自分の横顔を、髪を強風で乱れた感じにすればだけど、ぽっちゃりした藤原紀香に見えなくもないはずなのだ。身長だって、ほぼ同じだし。
勉強は頑張って東高校か君商には合格したい。ファッション雑誌にも目を通して服のセンスを身に付けたかった。男の子が恋愛の対象としてくれるような女の子になりたい。
ただし二つだけ問題があった。一つはチョコレートだ。食べないでいられるか自信がなかった。あたしからチョコレートを取ったら何も残らない、それが本音だ。痩せたい。でもチョコレートは食べ続けたい。量を減らそうとしたが上手くいかない。思い切って一切口にしないことにした。
もう一つはプロレスだ。誰にも言っていないが不沈艦スタン・ハンセンに憧れていた。ラリアットを相手に見舞うところが凄くカッコいい。あたしも、あんなふうにやってみたいと密かに思ってしまう。
父親がプロレスの大ファンでリビングのテレビで、しょっちゅう試合のビデオを見ていた。最初は大嫌いだった。格闘技なんて野蛮な人たちだけが見るもんだと思った。汗まみれで血を流しながら、男同士で取っ組み合うなんて不潔で嫌悪感しか覚えない。スポーツ観戦そのものに興味がなかった。ワールドカップ・フランス大会で日本が惨敗したときも全く悔しくない。終わって良かった、これで静かになるとしか考えなかった。
それがリビングの床に寝っ転がって、何気なくテレビの画面に映るプロレスの試合を見て気持ちが変わる。スタン・ハンセンとジャイアント馬場のPWFヘビー級選手権だった。すごく面白かった。試合はスタン・ハンセンがスモール・パッケージ・ホールドで負けてタイトルを失ったけど、彼のファンになった。あの荒々しさに魅力を感じた。興奮して和美自身も汗をかいてしまう。シャワーを浴びようと浴室へ行って、脱衣場で鏡に映った自分の裸体に驚く。何となく体型がスタン・ハンセンと似ているのだ。男の子たちが好むような女らしい体じゃないけど、悪い気はしなかった。ラリアットを見舞う動作をしてみる。うわー、なんてカッコいいの。すごく様になっていた。ああ、誰かにやってみたい。誰か憎らしい奴に食らわせてやりたかった。いつかチャンスが来るかもしれない。風呂場で、ラリアットとエルボー・ドロップの真似をするのが習慣になった。
でもダイエットは止めない。自分はプロレスラーになりたいわけじゃないから。男の子から女の子として認められたいのだ。ただし女の子らしくないけどプロレスの試合は見続けることにした。
なかなか体重が落ちなかった。ちょっと落ちても直ぐに元に戻ってしまう。ああ、何なのこれって。あたしに対する嫌がらせ? ずっとチョコレートのことが頭から離れないし。もうノイローゼになりそう。学校では秋山聡史とか相馬太郎なんか小柄でバカな男子を見ると、正面からラリアットを見舞ってやりたい衝動に駆られる。
男のくせにチビなんてバカじゃないのかしら?
小池和美は自分よりも背が低い男子を人間として認めていなかった。奴らは消耗品だ。生きていく価値もない。掃除当番は順繰りではなくて、連中の義務にすべきじゃないだろうか。テストの点は二十点引きにして、それを背の高い女子生徒たちに振り分ける。こういう意見を、どうして誰も言い出さないのか不思議でしょうがなかった。
「うっ」
鼻血だ。小池和美は用意してあったティシュに急いで手を伸ばした。大好きなチョコレートを食べると、いつも鼻血が出た。
久しぶりだったので大丈夫かなと思ったが、やはりダメだった。チョコレートと鼻血は切っても切れない縁になっているらしい。
痩せたくて、しばらく嗜好品を口にするのは控えていたのだ。その間は欲求不満で気が狂う思いだった。チョコレートのことが、ずっと頭から離れない。
小池和美は身長が百六十八センチで、体重は七十三キロと女子の中では大柄だった。背の高さを低くすることは不可能だが体重は落とせる。このままでは永久にボーイフレンドなんかできそうにないと考えて、ダイエットを始めた。十キロぐらい落とせば痩せた女というイメージを周囲に与えられるんじゃないかと期待した。
二年B組には不思議なくらい綺麗な女の子が集まっていて、おのずと美意識を刺激された。五十嵐香月、佐久間渚、手塚奈々、篠原麗子、奥村真由美の五人だ。タイプは違うが、それぞれが魅力的だった。そして担任の加納久美子先生。こんなに知的で美しい人は見たことがなかった。
当然だがクラスの中で自分の存在は薄い。男の子からは見向きもされない。大柄過ぎて恋愛の対象にならないのだろう。口には出さないが山岸くんたち不良グループが行った、『二年B組女子ベスト・オナペット』に選ばれた女の子たちが羨ましかった。
小池和美は書記というクラスでの役にしがみついていた。三人いる役員の一人だというプライドだ。委員長の古賀千秋に寄り添うことで自分も彼女みたいに頭がいいのだという印象を作りたかった。
彼女が学級委員長に立候補したときに、「あんたは書記をやりなよ」と誘われて和美も手を上げたのだ。
「三年生になったら生徒会長に立候補するからね」が、古賀千秋の口癖だった。つまり、あんたも書記として付いてきなという意味だ。何度も聞かされて、和美もその気になっていく。
今の時点で彼女に対抗できる候補は他にいない。当選は確実だろう。学校の成績は抜群。見事に整理され、マーカーで色刷りされた学習ノートは見たことがなかった。ここまでしないとトップの成績には届かないのか。古賀千秋のノートは完璧すぎて逆に小池和美の学習意欲を削ぐ。あたしには、とても無理だ。
こんな頭のいい子と仲良くなれて嬉しかった。それだけじゃなくて、彼女は均整の取れた身体をしていた。学校では学生服のサイズが合っていないのか、何となく野暮ったい感じがした。それが秀才っぽい雰囲気を醸し出しているけど。
日曜日とかに二人で会うときのカジュアルな格好では、スタイルの良さが際立っていた。ファッションにも詳しい。何を着ても似合いそうだから当然かもしれない。顔立ちだって悪くない。それなりに可愛いかった。『二年B組女子ベスト・オナペット』で五人と争える容姿を持っていた。男子が気づいていないだけだ。それとも頭が良すぎて恋愛の対象としては敬遠してしまうのか。
この子とずっと友達でいたい、そう小池和美は願った。友情を保つ為にと、マクドナルドなんかで食事した時は和美が二人分の代金を支払った。
痩せたくてダイエットを始めたのも、少しでも容姿を彼女に近づけたいからだ。五十嵐香月と佐久間渚の美人二人と仲良くしている山田道子みたいにはなりたくなかった。あれは、ただの引き立て役じゃないの。すっごく惨め。女として生まれてきて、あまりにも情けない。本人は頭が悪いから気づいていないのだろうけど。
二十キロぐらい体重を落としたかった。そうすれば斜め四十五度から鏡に映った自分の横顔を、髪を強風で乱れた感じにすればだけど、ぽっちゃりした藤原紀香に見えなくもないはずなのだ。身長だって、ほぼ同じだし。
勉強は頑張って東高校か君商には合格したい。ファッション雑誌にも目を通して服のセンスを身に付けたかった。男の子が恋愛の対象としてくれるような女の子になりたい。
ただし二つだけ問題があった。一つはチョコレートだ。食べないでいられるか自信がなかった。あたしからチョコレートを取ったら何も残らない、それが本音だ。痩せたい。でもチョコレートは食べ続けたい。量を減らそうとしたが上手くいかない。思い切って一切口にしないことにした。
もう一つはプロレスだ。誰にも言っていないが不沈艦スタン・ハンセンに憧れていた。ラリアットを相手に見舞うところが凄くカッコいい。あたしも、あんなふうにやってみたいと密かに思ってしまう。
父親がプロレスの大ファンでリビングのテレビで、しょっちゅう試合のビデオを見ていた。最初は大嫌いだった。格闘技なんて野蛮な人たちだけが見るもんだと思った。汗まみれで血を流しながら、男同士で取っ組み合うなんて不潔で嫌悪感しか覚えない。スポーツ観戦そのものに興味がなかった。ワールドカップ・フランス大会で日本が惨敗したときも全く悔しくない。終わって良かった、これで静かになるとしか考えなかった。
それがリビングの床に寝っ転がって、何気なくテレビの画面に映るプロレスの試合を見て気持ちが変わる。スタン・ハンセンとジャイアント馬場のPWFヘビー級選手権だった。すごく面白かった。試合はスタン・ハンセンがスモール・パッケージ・ホールドで負けてタイトルを失ったけど、彼のファンになった。あの荒々しさに魅力を感じた。興奮して和美自身も汗をかいてしまう。シャワーを浴びようと浴室へ行って、脱衣場で鏡に映った自分の裸体に驚く。何となく体型がスタン・ハンセンと似ているのだ。男の子たちが好むような女らしい体じゃないけど、悪い気はしなかった。ラリアットを見舞う動作をしてみる。うわー、なんてカッコいいの。すごく様になっていた。ああ、誰かにやってみたい。誰か憎らしい奴に食らわせてやりたかった。いつかチャンスが来るかもしれない。風呂場で、ラリアットとエルボー・ドロップの真似をするのが習慣になった。
でもダイエットは止めない。自分はプロレスラーになりたいわけじゃないから。男の子から女の子として認められたいのだ。ただし女の子らしくないけどプロレスの試合は見続けることにした。
なかなか体重が落ちなかった。ちょっと落ちても直ぐに元に戻ってしまう。ああ、何なのこれって。あたしに対する嫌がらせ? ずっとチョコレートのことが頭から離れないし。もうノイローゼになりそう。学校では秋山聡史とか相馬太郎なんか小柄でバカな男子を見ると、正面からラリアットを見舞ってやりたい衝動に駆られる。
男のくせにチビなんてバカじゃないのかしら?
小池和美は自分よりも背が低い男子を人間として認めていなかった。奴らは消耗品だ。生きていく価値もない。掃除当番は順繰りではなくて、連中の義務にすべきじゃないだろうか。テストの点は二十点引きにして、それを背の高い女子生徒たちに振り分ける。こういう意見を、どうして誰も言い出さないのか不思議でしょうがなかった。
作品名:黒いチューリップ 06 作家名:城山晴彦