流し雛の里
(なんと幻想的な光景だろう……)
広瀬は、川面にゆらゆらと浮かびながらゆっくりと流れて行く小さな灯りの群れを半ば呆然と眺めていた。
広瀬は民俗学者で作家、日本各地の珍しい風習が残る地を訪ね歩いてはそれを題材に小説を書いている。 古くから伝わる風習はその土地土地の事情やそれによって培われてきた考え方を色濃く表す、いわばその土地の歴史そのもの、広瀬にとってはこの上ない題材なのだ。
広瀬が書く小説は、そんな事情や考え方まで踏み込んで、土地の人々がどのように生きて来たのかを浮き彫りにする。
現代では人々の暮らしは画一化していく一方だ、その土地で生きて行くのが厳しいのであればそこを捨てて街に出れば良い、だがその昔、多くの人々は土地にしがみつく以外に生きる術を持たなかった、一見奇妙に見える風習でも、その土地で暮らしていく為の知恵が隠されているものだ、広瀬はそこに強く惹かれるのだ。
とは言え、あまり生々しく直接的な表現は取らず、創作部分を交えてなるべく美しい物語として描くことを心がけている、あからさまに描くことは土地の人々への敬意を欠く場合があるのだ。
ここ、中石村は谷間に位置する村だ、河口からそう遠いわけではないが切り立った山に挟まれていて、細長く狭い平地に家々がぽつりぽつり建っている、普通は河口に近づくほど平地が広がり開けて行くものだが、両側を山に挟まれて交通を妨げられ、ちょっと取り残された感のある村だ。
こんな土地には、時代の流れから取り残されたように古くからの風習が残されていることがままある。
『流し雛』の風習は日本各地に見られる。
その起源は古く、平安時代には既にあったと考えられている。 源氏物語にも『身の穢れを流すためにお祓いをした人形を船に乗せて須磨の海に流した』とある、『流し雛』はそういった祈りを込めて続けられてきたのだ。
だが、この村では桃の節句に雛ではなくぼんぼりを流す。
もちろん流してしまうのだから、ぼんぼりと言っても段飾りに並べるような手の込んだ工芸品ではなく、円形に切り出した板に蝋燭を立ててその周囲を和紙で竹を斜めに切ったような形に囲っただけの簡素なもの、それを稲わらで編んだ盆の上に一対で乗せて流す、ふたつのぼんぼりは同じ長さではなく向かって左側の方が少し高い、おそらく男雛と女雛を表しているのだろう。
一見、お盆に良く行われる灯篭流しにも似たものだが、一つの盆に一つの灯篭を乗せる灯篭流しと違い、ほのかな小さな灯りが寄り添うように対になって流れて行く様はかわいらしさを感じさせる、
そして過疎に悩む村にしては流される盆の数が多いのも特徴だ、一家で一つではなく、ひとりひとりが一つずつ盆を流すのだと言う。
「いかがですかな? この村の流し雛、いや、ぼんぼり流しは」
後ろから声をかけられて振り向くと、80歳くらいの老人が立っていた。
この祭りには村人と近隣の者、そして珍しい光景に目ざといカメラ愛好家くらいしか訪れない、ただ立って眺めているだけの広瀬は目に留まったのだろう。
「幻想的で美しいですね」
「このあたりは過疎が進んでいましてな、川岸に明かりが少ないのも良いのでしょうな」
確かに民家や街灯があまりない上に夜店が並ぶようなこともないので、小さな灯りがよりくっきりと浮かび上がっている。
「どちらでこの祭りをお知りになられたのですかな?」
「申し遅れました、私は民俗学者で作家の広瀬と申します、職業柄日本各地の珍しい行事や風習は細かく調べておりまして」
「ああ、どこかでお見かけしたようなお顔だと思いました……ご本は何冊か読ませていただいています」
「それはどうも」
「おっと、こちらこそ申し遅れました、私はこの村の村長を務めております石田と申します」
「村長さんでいらっしゃいましたか」
「もうこんなおいぼれですが、中々後を引き継いでくれる者がおりませんでな」
「しかし、本当に美しい……県の観光パンフレットにでも取り上げてもらえば観光資源になるのではないですか?」
「いやいや、村には店もほとんどありませんからな、観光客の方が大勢みえられましても村にお金は落としてもらえません、それよりもこうやって静かに執り行う方が良いのです」
言われてみれば確かに静かだ。
音楽を流すわけでもなく、お盆の灯篭流しのように読経が流れるわけでもない、夜店が出ていないので呼び込みの声もないのは当然としても、村人たちもにぎやかに話すわけでもなく囁くように話すだけ……もっとも、それがこの光景をより神秘的に見せていて、観光化されたら台無しだとも思える。
「いや、余計なことを申し上げました、民俗学者としてお恥ずかしい……村の方々がこの祭りを大事になさっていることが窺えます……ところで、人形ではなくぼんぼりを流すようになったのは何故なのでしょうか」
「さあ……ワシも良く知らんのですじゃ」
「いつ頃からこうなったかも……」
「それも……」
「そうですか、でも、ずいぶんと古い昔からなんでしょうなぁ……」
その時は本心からそう思っていた……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
東京に戻った広瀬はこの行事のことを更に詳しく調べてみた。
興味を深めたからばかりではない、調べてあの村長さん……「むらおさ」と呼んだ方がしっくりくるような人だったが……に教えてあげたいとも思ったのだ。
だが……。
「これはどういうことだ……」
日本の風習に関する事柄ならば一通りの資料を持っているし、どこでどう調べればよいのかも知っている。
だが中石村のことをいくら調べても「ぼんぼり流し」の風習について書かれたものは出てこない。
そしてようやく見つけた資料によると、昭和34年から人形に代わってぼんぼりを流すようになったとある……意外と新しい風習だったのだ。
「妙だな……」
広瀬は考え込んでしまった。
村長の正確な年齢は聞いていないが、どう見ても80歳くらいに見えた、今丁度80歳だとしたら1938年頃の生まれになる、昭和で言えば13年だ、昭和34年には21歳だったはずだ。
多少の前後はあるにせよ、そのくらいの年齢の頃の記憶があいまいだとは思えない。
「これは何かあるな……」
広瀬は国会図書館まで出向いて過去の新聞を洗い出してみることにした。
「これは……」
思いがけない事実に遭遇した。
昭和31年ごろから中石村を奇病が襲っていた。
当初は風土病かと考えられていたのだが、ほどなく原因が判明した。
少し上流にある農薬の製造工場、そこで新しく作られ始めた農薬に含まれる劇薬が工場排水に混じって川や地下水に流れ込み、川で獲れた魚や井戸水などから中田村の人々の口に入っていたのだ。
水俣病と近い時期のことになるが、中石村の人口が少なかったため被害者の数がそれほど多くなく、工場側もじきに非を認めて賠償に応じ、同時に施設も改善されたので大きなニュースにはならなかったらしい、その事実を見つけた新聞での扱いもごく小さなものだった。
だが、そのことは昭和31年からの3年間で小さな村にとってはかなりの打撃を与えていた。
広瀬は、川面にゆらゆらと浮かびながらゆっくりと流れて行く小さな灯りの群れを半ば呆然と眺めていた。
広瀬は民俗学者で作家、日本各地の珍しい風習が残る地を訪ね歩いてはそれを題材に小説を書いている。 古くから伝わる風習はその土地土地の事情やそれによって培われてきた考え方を色濃く表す、いわばその土地の歴史そのもの、広瀬にとってはこの上ない題材なのだ。
広瀬が書く小説は、そんな事情や考え方まで踏み込んで、土地の人々がどのように生きて来たのかを浮き彫りにする。
現代では人々の暮らしは画一化していく一方だ、その土地で生きて行くのが厳しいのであればそこを捨てて街に出れば良い、だがその昔、多くの人々は土地にしがみつく以外に生きる術を持たなかった、一見奇妙に見える風習でも、その土地で暮らしていく為の知恵が隠されているものだ、広瀬はそこに強く惹かれるのだ。
とは言え、あまり生々しく直接的な表現は取らず、創作部分を交えてなるべく美しい物語として描くことを心がけている、あからさまに描くことは土地の人々への敬意を欠く場合があるのだ。
ここ、中石村は谷間に位置する村だ、河口からそう遠いわけではないが切り立った山に挟まれていて、細長く狭い平地に家々がぽつりぽつり建っている、普通は河口に近づくほど平地が広がり開けて行くものだが、両側を山に挟まれて交通を妨げられ、ちょっと取り残された感のある村だ。
こんな土地には、時代の流れから取り残されたように古くからの風習が残されていることがままある。
『流し雛』の風習は日本各地に見られる。
その起源は古く、平安時代には既にあったと考えられている。 源氏物語にも『身の穢れを流すためにお祓いをした人形を船に乗せて須磨の海に流した』とある、『流し雛』はそういった祈りを込めて続けられてきたのだ。
だが、この村では桃の節句に雛ではなくぼんぼりを流す。
もちろん流してしまうのだから、ぼんぼりと言っても段飾りに並べるような手の込んだ工芸品ではなく、円形に切り出した板に蝋燭を立ててその周囲を和紙で竹を斜めに切ったような形に囲っただけの簡素なもの、それを稲わらで編んだ盆の上に一対で乗せて流す、ふたつのぼんぼりは同じ長さではなく向かって左側の方が少し高い、おそらく男雛と女雛を表しているのだろう。
一見、お盆に良く行われる灯篭流しにも似たものだが、一つの盆に一つの灯篭を乗せる灯篭流しと違い、ほのかな小さな灯りが寄り添うように対になって流れて行く様はかわいらしさを感じさせる、
そして過疎に悩む村にしては流される盆の数が多いのも特徴だ、一家で一つではなく、ひとりひとりが一つずつ盆を流すのだと言う。
「いかがですかな? この村の流し雛、いや、ぼんぼり流しは」
後ろから声をかけられて振り向くと、80歳くらいの老人が立っていた。
この祭りには村人と近隣の者、そして珍しい光景に目ざといカメラ愛好家くらいしか訪れない、ただ立って眺めているだけの広瀬は目に留まったのだろう。
「幻想的で美しいですね」
「このあたりは過疎が進んでいましてな、川岸に明かりが少ないのも良いのでしょうな」
確かに民家や街灯があまりない上に夜店が並ぶようなこともないので、小さな灯りがよりくっきりと浮かび上がっている。
「どちらでこの祭りをお知りになられたのですかな?」
「申し遅れました、私は民俗学者で作家の広瀬と申します、職業柄日本各地の珍しい行事や風習は細かく調べておりまして」
「ああ、どこかでお見かけしたようなお顔だと思いました……ご本は何冊か読ませていただいています」
「それはどうも」
「おっと、こちらこそ申し遅れました、私はこの村の村長を務めております石田と申します」
「村長さんでいらっしゃいましたか」
「もうこんなおいぼれですが、中々後を引き継いでくれる者がおりませんでな」
「しかし、本当に美しい……県の観光パンフレットにでも取り上げてもらえば観光資源になるのではないですか?」
「いやいや、村には店もほとんどありませんからな、観光客の方が大勢みえられましても村にお金は落としてもらえません、それよりもこうやって静かに執り行う方が良いのです」
言われてみれば確かに静かだ。
音楽を流すわけでもなく、お盆の灯篭流しのように読経が流れるわけでもない、夜店が出ていないので呼び込みの声もないのは当然としても、村人たちもにぎやかに話すわけでもなく囁くように話すだけ……もっとも、それがこの光景をより神秘的に見せていて、観光化されたら台無しだとも思える。
「いや、余計なことを申し上げました、民俗学者としてお恥ずかしい……村の方々がこの祭りを大事になさっていることが窺えます……ところで、人形ではなくぼんぼりを流すようになったのは何故なのでしょうか」
「さあ……ワシも良く知らんのですじゃ」
「いつ頃からこうなったかも……」
「それも……」
「そうですか、でも、ずいぶんと古い昔からなんでしょうなぁ……」
その時は本心からそう思っていた……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
東京に戻った広瀬はこの行事のことを更に詳しく調べてみた。
興味を深めたからばかりではない、調べてあの村長さん……「むらおさ」と呼んだ方がしっくりくるような人だったが……に教えてあげたいとも思ったのだ。
だが……。
「これはどういうことだ……」
日本の風習に関する事柄ならば一通りの資料を持っているし、どこでどう調べればよいのかも知っている。
だが中石村のことをいくら調べても「ぼんぼり流し」の風習について書かれたものは出てこない。
そしてようやく見つけた資料によると、昭和34年から人形に代わってぼんぼりを流すようになったとある……意外と新しい風習だったのだ。
「妙だな……」
広瀬は考え込んでしまった。
村長の正確な年齢は聞いていないが、どう見ても80歳くらいに見えた、今丁度80歳だとしたら1938年頃の生まれになる、昭和で言えば13年だ、昭和34年には21歳だったはずだ。
多少の前後はあるにせよ、そのくらいの年齢の頃の記憶があいまいだとは思えない。
「これは何かあるな……」
広瀬は国会図書館まで出向いて過去の新聞を洗い出してみることにした。
「これは……」
思いがけない事実に遭遇した。
昭和31年ごろから中石村を奇病が襲っていた。
当初は風土病かと考えられていたのだが、ほどなく原因が判明した。
少し上流にある農薬の製造工場、そこで新しく作られ始めた農薬に含まれる劇薬が工場排水に混じって川や地下水に流れ込み、川で獲れた魚や井戸水などから中田村の人々の口に入っていたのだ。
水俣病と近い時期のことになるが、中石村の人口が少なかったため被害者の数がそれほど多くなく、工場側もじきに非を認めて賠償に応じ、同時に施設も改善されたので大きなニュースにはならなかったらしい、その事実を見つけた新聞での扱いもごく小さなものだった。
だが、そのことは昭和31年からの3年間で小さな村にとってはかなりの打撃を与えていた。