依塚真紀奈考察余話 隠された守護者
一.愚痴(ぐち)
依塚(よりづか)真紀奈(まきな)は歩いていた。
祖父母の家で昼食を食べてから、日課となった散歩を楽しんでいた。さいたま市は東京と比べると、多少は気温が低いように感じられる。特に祖父母の家は和風建築なので、昼とはいえ薄暗く一層肌寒く思える。真紀奈が感じたそんな寒さを和らげようとしたのか、祖母が作ってくれた昼食の鍋焼きうどんは、真紀奈にとって寒さを忘れるほどにおいしかった。
そして体が温まった春の午後、数学の問題を頭の中で解きながら、元荒川に向かってゆっくりと歩いていた。
「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロルは「枕頭(ちんとう)問題集」という数学の問題集を書き著した数学者でもあった。原題は「Pillow Problems」、そのまんまである。しかし、書名の温和さに騙されてはいけない、内容は並の高校生では歯がたたない難解さだ。
その問題集の33問目、
「与えられた円に、一方が他方の二倍である平行な二辺を有する最大の四辺形を内接させよ」
真紀奈はこれを歩きながら頭の中で解いている。
(これは単純な計算問題ね。円の半径を1として、四辺形の上底を2α、下底を4α、面積をSとすると……、S=3α(√(1ーα^2)+√(1-4α^2))だから、微分すると……、α=(√(10-2√13))÷4。わ~~、計算がめんどくさいけど、これでよし!)
この春休みが明ければ高校2年に進級する真紀奈は微分を学校ではまだ習っていない。しかし真紀奈の好奇心、あるいは探究心の前では、ひとへに風の前の塵に同じ。興味が湧けばとことん調べて突き詰めようとする。それは真紀奈の拠り所でもあった。実際、学校の授業では物足りない。すべてはテストとその先にある受験のための授業であって、決して真紀奈の好奇心を満足させるそれではないのだった。
学校のテストであれば問題作成者(ほとんどの場合は担当教師だが)の癖や授業内容から問題を予測する。入試にしたところで過去問を調べればおおよその傾向はつかめる。
テストが始まれば、問題全体を俯瞰してみて、優先順位と時間配分を決めて取りかかる。いかに効率の良い手順で解答するかに重きを置く。当然結果は満点。そこでクラスメートから付けられたあだ名は「満点女史」。そして陰でささやかれる、「頭も良いし、そこそこ美人だけど、目がね……」、真紀奈の左目は右と比べると少し小さい。同じクラスの女子たちは嫉妬と少しのさげすみを持って、また男子たちには近寄りがたい存在として次のようにも呼ばれていた「残念女史」。
少しだけ小さい左目のせいでクラスメートには遠巻きにされることが多いが気にはならない。いや、自分だけの世界で好きなように考察を続ける真紀奈にとっては、むしろその方が何かと好都合なのだった。ともすればクラスメートたちは真紀奈の不可侵領域に土足で踏み込んでくる。「昨日のドラマ見た?」「土曜日買い物行かない?」「○○と△△が付き合っているの知ってる?」それがどうしたというのだ。そんな彼女や彼らの好奇心は真紀奈のそれとは対極にあるように思えてくる。自然、真紀奈は自分の周りに見えない結界を張ってしまう。
東京の自宅から祖父母の住んでいるここ、さいたま市へとやってきたのも、できるだけクラスメートたちと顔を合わせたくなかったからだった。春休みの散歩を兼ねた知的探求を顔見知りに邪魔されたくはなかった。きっと今ごろ彼女たちはささやいているかもしれない、「残念女史、見かけないね」「あの左目が……」
小学生のころ、真紀奈は両親に訊ねたことがあった。
「私の左目はどうして少し変なの?」
そのときの両親は少し驚いたように互いの顔を見て目を伏せてしまった。きっと私の不注意で何か事故が起こったに違いない。そのことに対して両親は責任を感じているんだ。それ以来、真紀奈の中ではこの質問は禁句となった。
(あれ? 道に迷った? そろそろ元荒川が見えてきてもよさそうなのに、小道に迷い込んでしまったみたい。やっぱりネガティブなことを考えているとダメね。太陽の位置からすると方向は合っていると思うのだけれど……。住居表示が越谷市になってるところからすると、この辺は祖父の家のある岩槻区と越谷市の境界みたい。それにこんな所にお寺があっただなんて祖父たちからも聞いたことがない)
「~~さぁ~ん」
自分の名前を呼ばれたような気がしてあたりを見回す。
「依塚さぁ~ん」
やっぱり誰かが私を呼んでいる。
お寺の駐車場らしき敷地から同じような年頃の男子がこちらに向かって手を振っていた。
(誰だっけ? 近所の子?)
「やっぱり、依塚さんだ。よかった。隣のクラスの円城寺(えんじょうじ)」
(円城寺? そんな子、隣のクラスにいた? しかし地味な男子ね。これといった特徴のない顔と量販店で買い揃えたような服。これじゃ電車で隣に座っても気がつかないと思う)
「依塚さんもこのお寺を見に来たの?」
「そういうわけじゃないけど……。祖父の家から元荒川まで散歩の途中」
「じゃあ、一緒にこのお寺見ようよ」
(なんでそこで『じゃあ』なの?)
「別に構わないけど……」
「行こう、行こう」
(なんか押し切られた感じ?)
円城寺が顔を見せた駐車場からは山門(さんもん)まではほんの10メートルほどだ。円城寺は五段ほどの石段の上に立っている山門に顔を向けて言った。
「これが淨山寺(じょうさんじ)の山門」
全体が朱色の山門には金文字で右から左へ「野嶋山」の寺額。門柱には今にも朽ちそうな板に「浄」の旧字体である「淨」を使って「曹洞宗 淨山寺」と書いてあった。山門すぐ横のカーブミラーには「浄山寺」とこちらは新字体である。
「門の様式は四脚門(よつあしもん)といって、将軍家や大名、そして寺格(じかく)の高い寺だけに許される、一番格式のある門なんだ」
「でも柱は六本あるわよ」
「真ん中の丸い柱はいわゆる本柱でその前後に角柱(かくばしら)があるでしょ。それが控柱(ひかえばしら)といって四本あるから四脚門」
「円城寺君、宮大工にでもなるつもり?」
「そんなことは考えてないけど、お寺の常識だと思うなぁ……」
(あたしに常識が無いって言いたいわけ? ちょっと悔しい)
「でもでも、浅草寺(せんそうじ)なんかだと柱がいっぱいあるじゃない?」
「あれは格式とは別だよ。雷門(かみなりもん)はすべて丸柱で門柱が四本、それに風神雷神を囲むように前後に二本ずつ、左右あわせて八本の控柱で八脚門(やつあしもん)。同じ浅草寺の増長天(ぞうじょうてん)と持国天(じこくてん)が収まっている二天門(にてんもん)も八脚門だね」
「増長天と持国天だから二天門?」
「そのとおり、よく気づいたね。増長天は南の守護で持国天は東の守護だね。だから南東の方角にあるんだ」
「ちょ、ちょっと待って」
真紀奈は遠い目をして家族で浅草寺へ詣でた記憶を呼び起こす。記憶だけでは自信が無いのか、ポケットからスマートフォンを取り出して浅草寺のマップを表示し、してやったりの顔で言った。
「二天門は浅草寺の真東でしょ。南東じゃないわよ」
作品名:依塚真紀奈考察余話 隠された守護者 作家名:立花 詢