堕とされしものたち 機械仕掛けの神
夏凛にはこれが限界であった。すでに時速八〇キロメートルを超えているというのに、フィンフはまだ早く走れると言うのか。夏凛はフィンフが光速で移動できることを知らなかった。
地面に足の裏を擦りながらフィンフが急ブレーキをかけた。夏凛も慌てて止まろうとする。だが、地面の窪みに足を引っ掛けてコケた。
巻き上がってしまったスカートを素早く直して夏凛は苦笑いを浮かべた。常時スパッツ着用で本当によかったと思いながらも、フィンフに失態を見せたことが夏凛に残る乙女心を傷つけた。
照れ笑いを浮かべながら、服に付いた汚れを払い、くるっとスカートの裾を巻き上げながら回転する夏凛。だが、その足は一八〇度回ったところで止まった。
「ム、ムシぃ〜!?」
ダンゴムシによく似たアーマーの大群が道路を爆走してくる。
鳥肌を立てた夏凛はこれに乗じてフィンフに抱きつき、ニヤリと笑った。
「ムシ怖いですぅ〜」
「夏凛様、大丈夫でしょうか?」
「あんなムシ早くやっつけちゃってくださぁ〜い」
「夏凛様は蟲がお嫌いなのですね。わかりました、夏凛様はしばしここでお待ちください」
巨大な槍を構えたフィンフは蟲の大群に向かって行った。
敵を察知したアーマーはいっせいにフィンフに飛び掛かった。下腹部についた鋭い牙を持つ口が蠢いているのがよく見える。
アーマーの頭脳は犬並みで、連係プレイを得意とする生き物だ。しかし、その連係プレイも虚しく終わる。
飛び掛かってきたアーマーの吐いた粘液を巧みに躱し、フィンフは一匹、二匹と、次々に串刺しにしていく。
空気を鳴らすように『キシャーッ』と叫ぶアーマーが次々と息絶えていく。
華麗な戦いを前に夏凛はフィンフを惚れ直した。
アーマーの甲殻はダイアモンド並みの強度を誇るが、腹部に当たる部分はぶよぶよしていて柔らかい。そこを攻撃してやればいとも簡単に仕留めることができる。夏凛ならばそうやって倒す。だか、フィンフは違う。硬い甲殻をいとも簡単に串刺しにしている。それは武器の性能か、それともフィンフの技量の成しえる業か――両方なのだろう。
フィンフの戦いに見惚れていた夏凛の耳に地響きが届いた。その音は後ろから迫ってくる。
「ムシぃ〜っ!」
ビルの角を曲がり現れたアーマーの大群が、夏凛がいる方角へと走って来る。フィンフは夏凛の遥か後方で戦っている。夏凛は仕方なく大鎌を出してアーマーに向かって行った。
嫌な顔をしながらも夏凛は大鎌を振るう。
「こんな汚らわしいの斬りたくないなぁ」
アーマーは獲物に飛び掛かって襲う習性がある。そこが狙い目だ。
飛び掛って来るアーマーに合わせて飛翔した夏凛は、意を決してぶよぶよした蟲の腹を斬り裂いた。斬り裂腹から勢いよく緑色の粘液が飛び出したが、夏凛はうまくそれを避けた、のも束の間で、次のアーマーたちが襲い掛かってきた。
笑みを浮かべながら華麗に舞う夏凛は三匹同時に腹を斬ってやった。しかし、その瞬間、夏凛は身も凍る思いをした。
「イヤぁ〜っ!」
緑色の粘液が夏凛に襲い掛かる。夏凛は避けきれず、身体は緑色の粘液で汚された。しかも、顔までやられている。
まだ、アーマーは残っているというのに、夏凛の手からは鎌が滑り落ち、地面にへたり込んでしまった。その表情はまるで魂の抜けた美しい西洋人形のようだ。しかし、顔は汚れている。
蟲たちがいっせいに粘糸を吐き出す。それは夏凛の自由を奪い拘束する。
糸のキレた操り人形の口元を少し上がる。
「下等な蟲の分際で粋がってんじゃねぇぞ、俺様の顔を汚した代償はつくぞオラッ!」
粘液を豪快に引き千切った夏凛は大鎌を力強く構え、大きく円を描きながら乱暴に振り回した。
爆裂風が巻き起こり、真空を作り出しことにより蟲たちは大鎌に吸い込まれるように斬り裂かれ、緑色の粘液が夏凛の全身を汚した。
大鎌を持ち立ち笑う夏凛の周りには、原型を留めていないミンチがあった。
急いで夏凛のもとへ駆けつけたフィンフは一部始終を傍観してしまっていた。
ふと、フィンフと目があってしまった夏凛は、凄く慌てたようすで大鎌を地面に投げ捨てた。
「あ、えっと、蟲さんたちぃ〜、アタシを怒らせると酷い目に遭っちゃいますで御座いますよぉ〜……てへっ」
今先ほどの夏凛とは別人であるが、これはこれで可笑しい。ずいぶんと動揺していることは間違いない。
夏凛はポケットからハンカチを取り出し、顔をごしごし拭きポイっと投げ捨てると、後退るようにその場を離れてフィンフの横にぴったりとくっついた。
「怖かったですぅ〜」
「ええ、わたくしも怖かったです」
苦笑いを浮かべるフィンフは夏凛の本性を知った。それでも夏凛はめげずにブリッコをする。
「早くファリスとツェーンさんを探しに行きましょうよぉ」
「そ、そうですね。いや……」
「嫌?」
「何かが来ます、それも凄まじい鬼気を発しています」
轟々という音を立て、地面が空に飛び砕け、地の底から巨大な何かが飛び出てきた。
雷鳴轟く曇天の下で、輝く翼を持つ〈アルファ〉が吼えた。
輝く黄金の槍が地面に降り注ぐ。
フィンフは言葉を失った。
「あんなものが地上[ノース]に在ろうとは、信じられない」
「あるんだから、しょ〜がないですよねぇ」
「わたくしひとりでは歯が立たない。ここは応援が来るまで、どこからか湧いて出たキメラたちを倒して回るしかないようですね」
「じゃ、アタシは行って来ま〜す」
夏凛はフィンフに背を向けて走り去ろうとした。
「行くのですか夏凛様は?」
「勝てない敵に立ち向かうほどバカでもないし、熱血でもない。でも、あっちの方って大好きなお兄様の家があるから」
フィンフに見えない位置で夏凛は苦笑した。そして、〈アルファ〉に向かって走って行った。
空を飛び移動し続ける〈アルファ〉の身体から何かが地上に降って来た。
地上に降り立ったそれは女の顔を持っている。
女は妖艶な上半身をさらし、豊かな乳房を揉みしだく。濡れた唇から熱い吐息が漏れる。紅い液体を口から滴らせる女は、舌を上手に使って口の周りについた液体を拭い取った。
鴉の目の前にいる女の上半身は女体であったが、下半身は蜘蛛のようである。そして、その妖艶な顔はまさしく千歳のものだった。
巨大蜘蛛の怪物と化している千歳は近くに止まっていた車の中で震える家族に狙いを定めた。
千歳は車の窓を打ち破り、運転席にいた中年男を車外に引きずり出し、その頭から喰らい付いた。
道路が血に染まり、車内に乗っている中年女性は失神し、男の子は目を大きく開けたまま固まり、女の子は悲鳴をあげながら泣きじゃくった。
次々と千歳は車の中に乗っていた人間を喰らっていき、最後に残した女の子を車外に引きずり出した。
この場に駆けつけた鴉は見た。怪物と化した千歳の周りには血を吸われ、挙句の果てに身体の一部を喰われた人間たちが転がっていた。凄惨な光景にまともな精神を持つ者なら目を覆いたくなる。
鴉が深く呟いた。
「……エンシュか」
千歳は幼い女の子の顔を舌で舐めると頭から喰らい付こうとした。
黒影が風に乗る。次の瞬間には女の子は鴉の胸に抱かれ、千歳から遠く離れた場所にいた。
作品名:堕とされしものたち 機械仕掛けの神 作家名:秋月あきら(秋月瑛)