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佐野槌 -張りの半籬交-

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七、聴き手のノオト



 僕は今、大きく支配した後悔の中に、少しの光を見ている。いや、大きな光の中に少しの後悔を見ていると云うべきだろうか。妻を娶る前に、あの二人から話が聞けたことは正しく、そして間違いだったのではないかと思えてくる。自分の中の過去と袂を分かつためにと始たことが、僕を戸惑わせていることに驚いた。始でそれ切の吉原通が見世の名前そのままのように、僕の中で後悔を堅い皮で包んでいたことを知らされた。

 僕にとって始の見世が佐野槌であったならば、僕の性慾の満足は違っていたのだろうか。僕は Casanova に為ったろうか。譬えば人は二つの道を同時には歩けないと同じ事で、その想像は僕の願望や反面教師でしかない。恋愛の成就を馬鹿々々しいと思えて、悔というものを感じなかった僕のなかに、甲殻類の堅い皮で包まれた悔があることを覚える。

 古老から聴いてた吉原が確かにあの二人の中には存在していた。同時に始の吉原で自分が感じた膿のような感覚は二人の話からは伝わってはこなかった。佐野槌だったら僕は喜んで脚を運んだかもしれない。そして相方が黛花魁であったなら今の僕はどんな僕を形成していたのだろう。

 この先、僕は必ずや佐野槌のことを書こう。反面教師として自分が感じた吉原のことを書こう。黛花魁にはどんな場面で登場してもらおうか。自分のことは本名の森林太郎で書こう。佐野槌のことは筆名の森鴎外にしよう。随分先のことになるかもしれない。

(完)