第八章 交響曲の旋律と
シュアンが、ぐっと身を乗り出した。ぎょろりとした三白眼が、ハオリュウに絡みつく。
「あなたが断れば、彼は殺される。――あなただって、自分のせいで人が死ぬなんて、嫌でしょう?」
それは情に訴えているようで、実のところ脅迫だった。
気の弱い子供なら、シュアンに協力することこそが善行であると信じて、即座に首を縦に振っただろう。
だが、あいにくハオリュウは、気の弱い子供ではなかった。異母姉の生命を狙った輩など、極刑こそがふさわしいと考える。
ハオリュウは爆発しそうな怒りを押さえつけ、深呼吸をした。冷静になる必要があった。
何故なら――。
「何を言っているんですか、緋扇さん」
笑顔の仮面を顔に載せ、ハオリュウは首を傾げた。
「その男は既に死んでいるでしょう? どうやって、死者を死から救うというのですか?」
ハオリュウは、ミンウェイと一緒に目覚めぬ父を見守っていた。そのとき、彼女がぽつりと漏らしたのだ。――捕虜を死なせてしまった、と。
自白の場に居合わせたのなら、シュアンは男の死を知っているはずだ。
彼の意図が、分からない。
「……『知っていた』のか」
「ええ」
「ならよぉ……」
不意に、シュアンが立ち上がった。
ふらつく足取りでハオリュウに近寄る。ハオリュウは何ごとかと身構えたが、彼の体が自由だったのはそこまでで、あっという間に襟首を掴み上げられた。
「……っ!?」
ハオリュウの子供の体は、いとも簡単にシュアンに宙吊りにされた。床から離れた足が、ばたばたと空(くう)を泳ぐ。
「あんた、先輩が無実だって知ってんだろ! 知っていて、何、澄ました顔をしてやがる!」
狂気に満ちた三白眼が、目の前にあった。そのまま喉元を噛みつかれそうなほど近くに口があり、濁った息が拭きつけられる。
ハオリュウは、初めてシュアンに恐怖を覚えた。取るに足らぬ小者だと、見下していたことを後悔する。
「そうさ、先輩は死んでいる。俺が殺した!」
シュアンが叫んだ。
と、同時に手を離し、ハオリュウの尻が椅子に叩き落とされる。
ハオリュウは咳き込んだ。目からは涙が滲んでいる。だが、それよりも、シュアンが叫んだ『俺が殺した』という言葉に混乱していた。
下を向いたシュアンの睫毛は、床に目を落としているように見えた。けれど、その目の焦点は合っていなかった。
「……死んだ人間の汚名を雪(すす)ぐことに意味はない。俺は名誉なんてものに、これっぽっちも価値を見出していない。馬鹿馬鹿しいとすら思っている」
シュアンの声が静かに響いた。
「けど、先輩が悪く言われるのは許せない。俺の信じる正義とは別物だが、先輩は『正義』なんだ。だから、先輩を綺麗なまま送り出すことは、先輩を殺した俺の義務だ」
尋常ではないシュアンに、ハオリュウは自分が失言をしたのだと悟った。
ハオリュウが知っているのは捕虜の死だけであり、その経緯も事情も知らない。詳しいことは、午後になったら皆に招集をかけて説明されるらしいのだが、鷹刀一族ではない彼が、その場に居合わせてよいのかは定かではなかった。――そのくらい、捕虜と自白の件に関しては、ハオリュウは部外者だった。
シュアンは懐に手を入れ、黒光りする拳銃を取り出した。それをまっすぐに、ハオリュウに向ける。
「糞餓鬼」
シュアンの口元で、狂犬の牙が光る。
「今から俺は、お前の四肢を順に撃ち抜いていく。それが嫌なら、俺に従え。先輩は無実だと、貴族(シャトーア)の権限を持って保証しろ」
血走った三白眼は気狂(きちが)いじみていたが、同時に極めて冷静だった。
シュアンは『命が惜しければ』とは言わなかった。『四肢を順に撃ち抜いていく』と言った。殺したら役に立たないことを理解しているからだ。――それだけ、本気だった。
ハオリュウはごくりと唾を呑む。
「……分かりました。書状を作ります」
すぐにメイドに道具を用意させた。
その際、助けを求めるような真似はしなかった。鷹刀一族の手を借りれば、シュアンを捕まえることも可能だったかもしれないが、シュアンの言動が気になった。
したためた書状を封筒に入れ、シュアンに手渡す。すぐさま立ち去ろうとする彼を、ハオリュウは「待ってください」と呼び止めた。
「捕虜の件ですが、僕は彼らが死んだことはミンウェイさんから聞いていますが、あなたが殺したことは聞いていません。ご説明、願えますか?」
「え……?」
シュアンが口を半ば開いたまま、動きを止めた。間の抜けた顔は、悪相ながらも愛嬌がないわけでもない。
「〈影〉のことを知らないのか……?」
「〈影〉?」
「先輩は、〈七つの大罪〉という組織の〈蝿(ムスカ)〉という奴に、別人にされたんだ。だから、あんな暴挙に……」
「……別人にされた?」
そのとき、ハオリュウの頭の中で符丁が合った。
別人のような父。食堂での会話の中で出てきた〈蝿(ムスカ)〉という名前――。
「糞餓鬼、どうした?」
気づいたら、シュアンに支えられていた。椅子から落ちかけていたらしい。不覚とばかりにシュアンの腕を払いのけようとしたが、手が震えて上手く動かなかった。
「……詳しく、教えてください」
絞り出すようなハスキーボイスに、シュアンは顔色を変えた――。
「あんたみたいな餓鬼が……本気か?」
「ええ」
ハオリュウは頷き、薄く嗤った。
「あなたが自らの手を汚したように、これは僕がやるべきことなんですよ」
「……」
こんなとき、いつもなら皮肉混じりの軽口を叩くシュアンが、返す言葉を見つけられなかった。ぼさぼさ頭の下の三白眼が、ハオリュウの決然とした顔を捉え、やりきれなさに揺らぐ。
「異母姉より早く、この情報を手に入れられて本当によかった。あなたには感謝しますよ」
「……まぁ、やってみろ」
状況に反し、むしろ晴れやかに微笑むハオリュウに、シュアンは少しだけ制帽を下げて軽い礼を取った。
そのまま無言で退室しようとしたシュアンに、ハオリュウは「先ほどの書状を」と口にする。
「あれは、まだ家印が押されていないから無効ですよ」
「な、何ぃ!?」
驚くシュアンに、くすりと笑いながら、ハオリュウはメイドに用意してもらった道具を使って、蝋燭に火を灯した。
それから、スーツのポケットから、箱に入った金色の指輪を出した。父が目覚めたあと、正当な持ち主に返すべく箱に戻したのだが、ばたばたしているうちにそのままになっていたのだ。
封筒に蝋を垂らし、指輪を押し付けて家印を刻む。
「これで、正式な書状になりました」
にっこりと笑いながら、ハオリュウはシュアンに書状を返す。シュアンは、狐につままれたような顔で書状とハオリュウを見比べた。
「ええと、つまり……?」
「恐喝なんかで、僕が素直に従うはずがないでしょう?」
ハオリュウの無邪気な笑みの向こうに、シュアンは黒い影を見たのだった。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN