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第八章 交響曲の旋律と

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2.ひずんだ音色−1



「お父様……!」
 扉を叩くことすらも忘れ、メイシアは客間に飛び込んだ。肩で息をしながら、黒曜石の瞳が白いベッドを求める。
「あぁ……」
 彼女の口から、かすれた声が漏れた。
 父だ……。
 半身を起こした姿で、目を丸くして彼女を見つめている。その目は落ち窪み、白髪も増えていたけれど、確かに父、コウレンだった。
「メイシア、か……」
 呟くような声が聞こえると同時に、メイシアは父のもとへと駆け寄った。
「お父様、よかっ……」
 あふれてきた涙を拭うよりも先に、彼女は崩れ落ちた。間近で見ると、父の老け込みようがよりはっきりと分かる。締め付けられるように心が痛んだが、それでも無事であることが、何よりも彼女は嬉しかった。
 暖かな光が満ちる。レースのカーテンが程よく陽射しを透かし、柔らかな空間を作り出す。くつろぎと癒やしを誘(いざなう)うベッドは輝くように白く、鼻先のシーツからは優しい石鹸と太陽の香りが漂っていた。
「姉様、落ち着いて」
 ハオリュウがメイシアの手を引き、椅子に座らせた。ずっと父のそばについていてくれた異母弟は、だいぶ疲れた顔をしていたが、とてもにこやかに笑っていた。
 父がいて、異母弟がいる。数日前には当たり前だった光景が、メイシアの胸を震わせる。
「ほら、姉様」と、ハオリュウが金刺繍のハンカチを差し出した。彼女はそれを受け取り、はっと気づく。
 異母弟の向こうには、医師として客間に控えていたミンウェイの姿があり、背後を振り返れば、連絡を受けたときに一緒に執務室にいたルイフォン、イーレオ、そしてシャオリエまでもが、優しい目をして彼女を見守っていた。
「……っ! お見苦しいところを……。失礼いたしました」
 はしたなくも取り乱してしまったと、メイシアは赤い顔でぱっと立ち上がり、頭を下げた。
「いいじゃないか。お前は本当に親父さんのことを心配していたんだから」
 笑いながら、ルイフォンが特徴的な猫背の姿勢でゆっくりと近づいてくる。せっかくの一張羅も既に着崩れしていて、どことなく様(さま)にならない。
 けれど、彼の姿を見た途端、メイシアは急に子供みたいに声を上げて泣きじゃくりたい衝動にかられた。
「ルイ、フォン……。本当に……ありがっ、とぅ……」
「俺は、俺のしたいことをしたまでだ」
 そう言って、ルイフォンがメイシアの髪をくしゃりと撫でようとした。――が、それはハオリュウの小さな咳払いによって阻止された。
「父様。こちらのルイフォン氏が、父様を斑目一族の別荘から救い出してくださったんです。覚えてらっしゃいますか?」
「……そういえば――」
 コウレンが、はっと顔色を変える。――緊張を帯びた表情に。
 気絶させたのち、薬まで使って連れてきたのだから仕方ない。ルイフォンは罰(ばつ)の悪い思いをしながら、できるだけ礼儀正しく頭を下げた。
「斑目の別荘でお会いしていますが、改めまして。鷹刀一族総帥が末子、鷹刀ルイフォンです。こちらにお連れする際には、手荒な真似をすみませんでした」
「ああ、いや……、構わぬ」
 コウレンが、ベッドからルイフォンを見上げる。その瞳には警戒が見て取れた。
 すぐにもメイシアとの話を切り出したいルイフォンだったが、今はその機ではないと判断せざるを得なかった。焦りは禁物だと、自分を戒める。
 ハオリュウが立ち上がり、背後に向かって「ご足労、痛み入ります」と会釈をした。
「後ろにいらっしゃる方が鷹刀一族総帥の鷹刀イーレオ氏です。さっき説明した通り、僕たちは鷹刀一族の方々に大変お世話になったんです」
「そうか……」
 口の中で、もごもごとコウレンは小さく言った。
 良心的に解釈すれば、凶賊(ダリジィン)を相手に距離を掴めずにいる、あるいは言葉を選びあぐねている、といったところだろうか。それでいて目はそらすことなく、むしろ熱心に様子を窺っている感がある。
 メイシアの父親を悪く思いたくはないが、ルイフォンは正直、よい気持ちはしなかった。だがコウレンの態度は、ルイフォン以上に、息子のハオリュウを苛立たせた。
「父様。こちらの状況をご存じなかった父様には、にわかにはご理解いただけないかもしれませんが、我が藤咲家は鷹刀一族に多大なる恩義があるんです。ひとこと、お礼申し上げてください」
 ハオリュウの目が険を帯びる。しかしコウレンは意に介したふうもなく、背中に当てた柔らかな枕に寄りかかったまま、顔だけをイーレオに向けた。
「これは失礼した。当家のために尽力、ご苦労であった」
 しゃがれたコウレンの声が、場の空気にひびを入れていく――。
 受け答えとして一見、自然にも聞こえる言葉は、けれど明らかに鷹刀一族を『下』に見たものだった。
「お父様!?」
「父様!?」
 メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に父に目を向けた。それから互いに顔を見合わせ、父に対しての困惑を共有する。
「……父様、僕たちは鷹刀の方々を雇ったわけではないんです」
 どうして、この父はこうも状況判断ができないのか。相手は器の大きなイーレオだから険悪にはならないだろうが、藤咲家として恥ずかしい。
 腹立たしさに、ハオリュウは舌打ちしたくなる。
「勿論、藤咲家として謝礼は充分にするつもりですが、今回のことは鷹刀一族のご厚意に依るところが大きくて……」
「ルイフォンに謝ってください!」
 メイシアの叫びが、異母弟を遮った。
「彼は、私のためにお父様を助けに行ってくれたんです! 危険を承知で、無茶ばかりして……!」
 彼女は拳を握りしめ、訴える。
 コウレンの言葉と目線は、ルイフォンの心を踏みにじった。たとえ大切な父でも、許せないと思った。
 けれど、それは父が事情を知らないからで……。たまらなく嫌で、苦しくて切ない気持ちがメイシアの心を占めていく。
 彼女は、すっと立ち上がり、凛とした目を父に向けた。
「私の大切な人なの。彼をそんな目で見ないでください……!」
 祈るような透き通った声。メイシアの目尻から、涙の雫が滑り落ちた。コウレンは口を半ば開いたままで、言葉はない。
 震える彼女の肩を、ルイフォンがそっと抱いた。心配するなと髪に触れ、彼はきっ、と口元を結ぶ。彼女よりも一歩前に出て、彼はコウレンに膝を折る。編まれた髪が背中を転がり、垂れ下がった。
「眠らされたまま鷹刀の屋敷に連れてこられて、いきなりいろいろ言われて混乱してらっしゃると思う。けど、ともかく、まずは安心してください。鷹刀は、主従関係ではなく信頼関係で藤咲家と結ばれている」
 低いところから、ルイフォンがコウレンを見上げる。
 足元に近い位置で金の鈴が揺れるのを見て、ハオリュウは焦った。明らかに非は父にある。なのに、ルイフォンがひざまずくのは道理が合わない。
「立ってください! あなたは雇われているわけじゃない。自分でそう言っているじゃないか!」
「ハオリュウ、間違えんな。一族を背負った親父が膝をついたら駄目だけど、俺がやるのは別だ。俺は鷹刀と藤咲家の友好関係を示したい」
 ルイフォンが不敵に笑う。隣で不安がっているメイシアに、任せろと目で伝える。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN