WEATHER REPORT
かつて東京と呼ばれた街に大雨が降り続いた。異常気象が続く近年では決して珍しくは無い光景だった。
しかし雨は九日も降り続けた。街を、そして半島を雨雲が覆い続けた。だがこの街には浸水を心配する住人たちの姿はどこにも無かった。
港に向かって一隻の薄汚れた貨物船が入ってきた。ひどく耳障りな金属音が鳴り響く甲板には一人の女が立っていた。女は一人で霧に包まれた海を見ていた。腰にまで掛かる長い黒髪と黒いコートは僅かに湿っていた。女はしばらくそうしていたが、やがて咥えていた火の消えた煙草を吐き捨てた。女は前方に港の明かりを見つけるやいなや突如として走り出した。肉眼で捕らえるのが困難な程の勢いで駆け抜けた。そしてそのまま弾き出されたピンボールのように船首を踏み切り台として飛んだ。跳躍というよりは飛躍に近かった。
数年前に関東近郊で大規模なテロが発生した。日本政府と米軍との間での協約が結ばれた為か、中東の反米テログループによる大規模な爆弾テロが行われた。当時経済がほぼ破綻状態であった政府に、かつての首都を再建させるだけの財力は残されていなかった。日本政府は米軍、国連との協議の後に被害が大きく、都市としての機能を損失したとされる東京、神奈川、京葉地域を政府管轄外特別指定地域とした。生き残った住人たちの多くははそれぞれの伝手を頼り街を出た。
しかし去り行く者たちがあれば新たな移住者たちもあった。国が見捨てた陸の孤島には世界中から様々な種類の人間が集った。あらゆる法が適用されない無法地帯に、マフィア、密入国者、逃亡犯、精神異常者、家出人、過激派など、社会が見捨てた人間たちが集まり独自に街を復興させ始めたのだった。湾岸地域の多くの港が難を逃れたことがそういった事態を生み出した。廃墟と化したかつてのビル街や住宅地の多くは放置され、湾岸地域のそれぞれの港にマーケットが現れ始めた。同時にあらゆる人間が流入し奇妙な社会を形成するにまで至った。そしてその街は『ベイ・エリア』と通称され政府の新たな悩みの種となった。政府は対面上の理由から小隊を駐留させ監視することを発表したが、事実上はあらゆる事態が黙認されることとなった。
降り出してから十日目の朝、雨は霧に変わった。まるで雨を嫌う彼女を迎えるかのように。
午前一時、男は目を覚ました。テーブルの上で鳴る目覚まし時計を止めようとしてうっかりグラスを引っくり返してしまった。
「おわっ」
思わず声が漏れた。半分は入っていたであろうウィスキーが絨毯を濡らした。男は流しから雑巾を持ってきてそこいらを拭くとまた流しに戻って雑巾を洗った。几帳面な性格の様だった。続いて顔を洗い、鏡に映った自分の姿を見た。どこか少年らしさを残した端整な顔立ちに、短く刈り逆立った髪、上下黒ずくめの服、腰のホルスターには同じく黒のグロックが収められていた。
使ったタオルを洗濯機に放り込んでから、応接間と呼ぶにはあまりに雑然とした『応接室兼オフィス』に戻って最後に巻いた腕時計が示した時間は既に一時半を回っていた。急いで戸締りをしてから事務所を出て脇のガレージに急いだ。愛車フォード・ファルコン(スーパーチャージャー付き)のエンジンに火を入れる。すぐに心地よい重低音が車体を振るわせる。彼はダッシュボードからサングラスを取り出し、シャツで軽く拭いてから掛けるとアクセルを踏みこんでハンドルを切った。迎えに行かなければならない、彼の女王を。彼女は時間にはうるさい、その事を彼はよく知っていた。そして不機嫌になった彼女が何をしでかすかわからないという事も。
『ベイ・エリア』には幾つもの港があるが、それらは扱う積荷によってはっきりと区別されていた。彼はそれほどヤバくないブツを扱う港に向かって車を走らせた。港までは五分もかからない。すぐにゲートが見えてきた。
「よう、リカード」
警備員の一人が声をかけてきた。誰にでも話しかける陽気な男だった。
「アンタの好みのブツはここじゃぁ扱ってねぇぜ。ホワイト・ヘブンの方に行ったらどうだい?」
ホワイト・ヘブンと言うのは主に銃器や麻薬などを扱う港だ。男は苦笑しつつ
「出迎えですよ、出迎え」
「こんな薄汚ねぇトコにかい?一体誰を出迎えるって言うんだ。オンナか? まさか違うよな」
軽口にも一応付き合うことにする。
「そのまさかです」
あえて自信たっぷりの表情を作って答えた。
「嫌味なヤツだな。まぁいいさ。この時間なら第八埠頭の方に一隻入るって聞いてるぜ」
「どうも。ちょっと急ぎます。気が短い人でしてね」
「オーライ。恋人によろしく」
言い終えると同時にバーが上がった。まっすぐに埠頭内の駐車スペースに向かった。第八埠頭には歩いてもそう時間はかからないからだ。資材が積まれている脇に車を止める。フォークリフトやらトレーラーやらがかなりの台数止まっていた。そろそろ荷降ろしが始まる時間なのだろうか、作業員たちが忙しげに動いていた。幾人かの人間が彼に声をかけてきた。その度に彼は出迎えだと簡潔に答えた。
すぐに目的の第八埠頭に着いた。あまり来る用事は無い場所だが間違えるということは無い。どうやら船はちょうど到着したようだった。どこにタラップが降りるのかと眺めていると
「遅い」
突然後ろから声をかける者がいた。さすがの彼も驚いた。通常の人間では彼の背後に回れるということなどあり得ないのだから。あの船で来るのではなかったのか、という疑問を抱くのと同時に振り返った。
「十分四十二秒の遅刻だ」
一年前と変わらない彼女の姿があった。腰にまで掛かる長い黒髪、透き通りそうな程の白い肌、ミッドナイト・ブルーの瞳、黒のスラックスに黒いブーツ、白いブラウスと黒のロングコート、全てが同じだった。
「長旅お疲れ様でした、我が女王メイヘム。随分と早いお着きだっだようですが」
「あぁ。港が見えたからな、ちんたら着くのを待ってるのもまどろっこしかった。それでちょっと途中下船させてもらった」
「相変わらずですね、クイーン。お元気そうで何よりです」
「当たり前だ。それよりこっちはどうだったんだ? リガージテイトよ。私がいない間に何か面白いことはあったか?」
「連中の下っ端が二、三度仕掛けてきた位です。大した事件はありませんでした」
メイヘムは「だろうな」という表情を浮かべた。
「向こうでも何度かかち合ったがな、造作も無い奴らだった。奴ら直属じゃないな。まだスワンズの奴らは動き出していないのかも知れん」
「こっちに来たのは奴らの末端に間違いありませんよ」
「ほう、なぜそう言い切れる?」
メイヘムは右眉を上げながらさも愉快そうに尋ねた。
リガージテイトと呼ばれた男はゆっくりと溜めを利かせて答えた。
「だって本人たちがそう言ってましたから。白鳥の騎士団は再興したとね」
メイヘムは神妙な面持ちで聞いていたがすぐにぶっ、と吹き出した。
「ははは、そうか、あいつらがか。全く懲りない奴らめ。本当だとすればこいつは楽しみだ。喜べリカード、また派手に殺し合えるぞ」
作品名:WEATHER REPORT 作家名:黒子