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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 ミニョンはどれだけ泣いたのか、眼は真っ赤で腫れていた。オクチョンの心は熱くなった。
 そう、自分は確かに憎まれているかもしれないが、その一方で、こうして心から案じてくれている人もいる。それで良いのかもしれない。理解してくれる人だっている。何も悪いことをしていなければ、天はちゃんと見ていてくれる。
 今日だって、スンがちゃんと助けにきてくれた。
「気の毒なのは、あの占い師よ。私と関わり合ったばかりに、生命を失う羽目になってしまった」
 オクチョンは眼を閉じた。新たな涙がわき上がる。
「大妃さまは人の生命を奪うことを何とも思っていらっしゃらないのね。地面を這っている虫だって、無闇に殺して良いものじゃないのに」
 占い師の死は、元々はミニョンがオクチョンに引き合わせたせいでもある。彼女も占い師の死は予期していなかったらしく、しばらく言葉はない状態であった。
 ミニョンはハッと息を呑んだ。
「言い換えれば、大妃さまは人殺しも躊躇わぬほど尚宮さまを追い落としにかかっているということでもありますね」
 オクチョンは頷いた。もう、認めないわけにはゆかない。大妃は全力でオクチョンを追い出そうと―いや、息の根を止めようとしている。
 だが、スンに告げた言葉は嘘ではなかった。オクチョンはミニョンに告げた。
「それでも、私は大妃さまに歩み寄ろうと努力するつもりよ、ミニョン」
―どこまでお人好しなんですか。
 いつものように笑われるかと思いきや、ミニョンは笑わなかった。
「たとえ、そのために生命を失うことになってもですか?」
 その顔は怖いほど真剣だ。オクチョンは頷いた。
「あなたの心配は判るわ。相手は人を殺しても平気なんだもの。しかも、ひと度荒療治に出たからには、これからは尚のこと手段を選ばないでしょう。それでも、私は大妃さまに真心を示し続けたい」
 大妃さまが大切な男(ひと)のお母さんだから。
 声には出さないオクチョンの真意をミニョンは正しく理解したようだ。しばらく黙ってオクチョンを見ていたかと思うと、笑った。
「オクチョンには負けるわ。あなたがそこまで寛容になれるのは大妃さまへの気持ちというよりは、殿下への想いでしょう。私には到底、真似できない。それほどに深く誰かを愛せるなんて素敵よね」
 これは女官時代の物言いに戻って言う。
 その口振りに、オクチョンは感じるものがあった。
「ホ内官と何かあったの?」
 控えめに問えば、ミニョンがはにかんだように笑った。
「また求婚されたの」
「そう。それで、気持ちはやはり変わらない?」
「ええ。この際、きっぱりと断ったわ。私は宮仕えの方が性にあっているからって」
 しばらく静かな時間が流れた。意外にも、その沈黙を破ったのはミニョンだった。
「ね、オクチョン」
「なあに」
 オクチョンもまた親友に対するように応える。
「あなたが殿下をお慕いするほど、私がホ内官を好きになれたら、きっと宮仕えなんて放り出して彼に嫁いだかしらね。私はそこまで男性を好きになれるあなたを羨ましいと思うけれど、どうしても真似はできそうにないわ」
「ホ内官は諦めてくれた?」
 ミニョンの童顔に、苦笑が浮かんだ。
「待つんですって」
「まあ」
 素直に愕きの声を上げたオクチョンをミニョンが恥ずかしそうに見る。
「先代の内侍府長を務められたお義父さまに直談判したそうよ。私の気が済むまで宮仕えを続けるのを条件に、結婚を認めて貰ったみたい」
「そこまでして貰って、断るということはないでしょうね、ミニョン」
 オクチョンの言葉に、ミニョンが頬を染めて頷いた。
「最初はお義父さまも反対したそうよ。結婚するからには、すぐに家庭に入るべきだって。それは当然よね。でも、彼が粘って、もし結婚を許してくれないなら、家を出るとか脅したらしいの」
「素敵だわ。ミニョン、ホ内官は、沈着な見かけによらず、とても情熱的なのね。こんなことは言えないけど、国王殿下よりよほど頼もしいじゃない」
「まあ、それはどうだか知らないけど、私もそれで結婚の話をお受けしますと応えたの」
「良かったわ」
 オクチョンは我が事のように歓んだ。
「それで嘉礼はいつ?」
「できれば今年中には内々に済ませたいと考えているのだけれど、オクチョンは来てくれる? やはり立場上、無理かしら」
「殿下と相談してみるわ」
 ミニョンは微笑んだ。
「結婚しても、私は今までどおり、オクチョンの側にいられるわ」
「それは嬉しいけれど、それで良いの? 新婚なんだし、しばらくは休みを取ってホ内官の屋敷で暮らした方が良いのではない?」
 ミニョンが怖い顔になった。
「そんなことを言うなら、もう結婚は止める」
 オクチョンは笑いながら言った。
「怖い顔をしないで。私だって、あなたが側にいてくれれば鬼に金棒よ。でも、私のために、あなたの幸せを邪魔したくないの」
「前も言ったでしょう。私の幸せは、あなたのために尽くすこと。だから、もう二度と、いなくなれなんて言わないで。それにね、ホ内官との間に子どもは望めないわ。子どもがいればまた話は違うでしょうけど、幸か不幸か、私をホ家の屋敷に引き止めておくものは何もないの。だから、これからも私はずっとオクチョンの側にいる」
「ありがとう、ミニョン」
 オクチョンが眼を潤ませると、ミニョンがまた軽く睨んだ。
「それよりも、鬼に金棒って、どういう意味よ? 失礼しちゃうわね」
「ふふっ、私が鬼で、ミニョンが金棒というところかしら。でも、失礼なら、千人力と言い換えるわ」
 女官時代から数々の試練を経て、また主従の絆は強くなった。オクチョンは一時、拷問で受けた身体の痛みも忘れ、ミニョンと顔を見合わせて笑った。
 この言葉どおり、ミニョンはこの年の終わり、ホ内官と祝言を挙げたものの、相変わらず自他共に認めるオクチョンの第一の側近であり続けた。
―妻が一刻も側にいないのでは、何のために結婚したのか判りません。
 新たに国王付きの内官に抜擢されたホ内官が粛宗に訴えたらしい。そこは男同士、つい本音が漏れたというところか。
 ホ内官の愚痴とも惚気とも取れないぼやきを粛宗はそのままオクチョンに伝えた。
 以来、オクチョンの勧めもあり、ミニョンは月に数日は休みを取って良人の待つ我が家へ宿下がりをするようになった。

 スンがオクチョンの殿舎を訪ねたのは、数日後の夕刻だった。その間、彼からまったく音沙汰がなく、ミニョンなどは気を揉んでいたのだ。
 だが、オクチョンは、いつものようにゆったりと時間を過ごしていた。
 スンなら、大丈夫。オクチョンは彼を信頼している。その信頼は愛とも呼べるものだ。スンと自分は誰にも阻めない強い絆で結ばれているから、どんなことがあっても彼を信じられる。
 彼が来ないのは、何か相応の理由があるからだ。ならば、オクチョンは彼を信じて、その訪れを待てば良い。
 若い身体は回復も早い。しかも拷問が本格的に始まる前にスンが救い出してくれたため、身体に受けた損傷もさほどではなかった。
 翌日はかなりの痛みが続いたものの、医官が処方してくれた塗り薬と煎じ薬が効いたものか、二日目には自分でも愕くほど痛みが引き、三日目には嘘のように治まった。