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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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第二話「月の涙」

  敵対者

 暑い。ただじっと立っているだけでも、背筋をねっとりと嫌な汗がつたい落ちてゆくのが判る。それもそのはず、今は真夏の盛りである。この酷暑のせいで、王の母である大妃(テービ)はまた発作を起こして倒れたというが、どうやら今度は?いつものご病気?とは異なり、正真正銘の?ご不例?であるらしかった。
 そのせいか、スンこと粛宗の訪れが絶えて既に三日めになる。心配性のミニョンは当人のオクチョンよりも色めき立ち
―尚宮さま(マーマニム)、このまま国王殿下(チュサンチョナ―)のお渡りがなくなってしまったら、いかがなさるおつもりなのですか!
 と、オクチョンにもう少し危機感を持つように進言したほどだ。
 ミニョンはオクチョンがまだ共に女官であった時代からの朋輩である。ミニョンは要領が悪く、仲間の若い女官たちからの虐めを受けていた。そんな彼女を正義感の強いオクチョンは見過ごしにできず、陰になり日向になり庇い続け、ついには敵対する女官から池に落とされるという事件が起きた。
 しかし、それがきっかけで、敵対する女官たちは宮殿から追放され、オクチョンの想い人スンが実は国王その人であったと知ることになったのだから、人の運命とは判らないものだ。
 オクチョンはほどなく粛宗からの命で、特別尚宮に任命された。特別尚宮は国王の側妾であり、尚宮と呼ばれても仕事を持つ職務女官とは異なる。要するに、正式な側室にはなれなかった王のお手つき女官の呼称だ。
 もちろん、粛宗はオクチョンを側室に任命するつもりであった。だが、オクチョンを眼の敵(かたき)にする大妃の猛反対に遭い、あえなく挫折した。オクチョンが大王大妃(テーワンテービ)殿の女官であり、大王大妃その人が可愛がっているというところが余計に気に入らなかったのだ。
 大王大妃は四代前の国王仁祖の継室である。粛宗には血の繋がらない曽祖母だ。とはいえ、若き王は幼いときから、この不遇な曽祖母を慕い、繁く大王大妃殿を訪れては大王大妃の無聊を慰めていた。
 大王大妃には御子もおらず、淋しい身の上である。大妃は大王大妃を軽んじており、平気で?王室の厄介者?と公言してはばからない。大妃は愛息子が大王大妃を訪ね親交を深めるのも気に入らない一つなのだ。その大王大妃の息の掛かった女官を息子の嫁として迎えるなど、言語道断といえた、
 もう一つ大妃が気に入らなかったのは、オクチョンの出自である。オクチョンの父方張氏は代々通訳官を務めていた。父方は中人で、身分は高くないとはいえ、しっかりとした家である。だが、母方の実家尹氏(ユンし)は奴婢であり、身分は低かった。
 この国では父が両班(ヤンバン)であっても、母が賤民であれば、産まれた子も賤民とされる。つまり、オクチョンは奴婢であった。王の側室といえば王族である。賤民を王族に加えるなど、とんでもないことである。と、大妃は断固としてオクチョンを側室に迎えるという息子の意を突っぱねた。
 スンは国王である。王の意は絶対で、何人たりとも逆らうことはできない。けれど、孝行息子の彼が母に逆らうことなど滅多となかった。大体、大妃はオクチョンを特別尚宮に据えることでさえ、承知しなかった。つまり粛宗は母の意に真っ向から逆らったわけで、これ以上、大妃の怒りに油を注ぐのはかえってオクチョンへの母の憎しみを増すだけと、賢明にも粛宗は考えるだけの分別はあった。
 結局、大妃の意見を無視した形で、オクチョンは特別尚宮に取り立てられた。王族と見なされる側室ではないが、特別尚宮になったからには、王の側室として正式に認められたも同然である。大妃の憤懣はゆき場がなく、鬱々と過ごしていた。その気鬱がついに限界を超えたのか、大妃がこの暑さの中、?暑気あたり?で倒れたと聞き、粛宗は寝込む母の枕辺から離れようともせず看護しているという。
―仕方ないわ。スンは大妃さまを心から大切に思っているんだもの。
 オクチョンは溜息を一つ吐き、考えた。叶うことなら、大好きな男の大切な母であれば、仲良くしたい。息子の嫁として可愛がって貰いたいとまでは思わないけれど、せめて存在くらいは認めて欲しい。そう思わずにはいられない。
 でも、それは所詮、オクチョンの虫の良い考えというものだろう。大妃は産まれたそのときから将来は王の后となるべくして大切に育てられた権門の姫だ。この国では最下層とされる賤民の自分とは住む世界が違う。大妃が我が身を息子の嫁として認めたくないのも大妃自身の高貴な身の上を考えれば致し方ないのかもしれない。
 ―などと言えば、今ではオクチョンの忠実な側近となっているミニョンはまるで我が事のように怒る。
―尚宮さまはお人が好すぎます。たとえ元々の身分がどうであろうと、尚宮さまは現在、国王さまのご寵愛を受けられる御身です。ひとたび承恩を受ければ、その女人は出自に関わりなく高貴な立場となるのは誰が言わずとも知れたこと。大妃さまは悪あがきをなさっておいでなのですよ。
 王の母相手に?悪あがき?とは随分と言いたい放題ではあるが、ミニョンはオクチョンに幾度となく救われた経緯からも、絶対的な忠誠を誓っている。オクチョンが蔑ろにされるのは自分が馬鹿にされるのと同じ理屈なのだ。
 ミニョンが憤る度、オクチョンの方が諭す方だった。
―ミニョン、真心を尽くせば、いつか報われるときが来るわ。大妃さまだって、鬼ではないのだもの。私はこれからも実の母に対して尽くすのと同じように大妃さまに孝養を尽くしていくつもりよ。きっと大妃さまもいつか理解して下さる日が来るでしょう。
 本当にそんな日が来るのかは判らない。けれど、今はそう信じるしかなかった。ミニョンは不服そうな顔をしながらも、それ以上何を言うこともなかった。
 それにしても、暑い。オクチョンはあまりの暑さに軽い目眩を憶え、よろけた。
「尚宮さま?」
 側に控えたミニョンが慌てて支えてくれなければ、オクチョンは無様に転んでいたに違いない。
 額に手をかざして空を見上げれば、地上のすべてを灼き尽くさんばかりの勢いで燃え盛る太陽が輝いている。
「尚宮さま、そろそろ殿舎に戻りましょう。これ以上、このような炎天下に立たれていては本当にご病気になってしまいます」
 ミニョンが心から案じてくれているのは判った。実家の母を除けば、この側近にして親友だけがこの伏魔殿と呼ばれる後宮では唯一信頼できる存在なのだから。
「もう少しだけ。あと半刻だけ待っても駄目なら、殿舎に戻るから」
 オクチョンが言うと、ミニョンは仕方ないといった風に微笑んだ。
 更に半刻が過ぎようとかという頃、オクチョンはこれでもう幾度めか知れない吐息をそっと洩らした。あからさまに溜息をつけば、ミニョンを余計に心配させるだけだ。
―今日もまた逢っては下さらなかった。
 喪失感と虚無感が一挙に押し寄せる。朝の早い時分にここに来たのに、太陽はもう頭上で輝いている。つまり、それだけの時間が流れたということだ。さしずめ今は昼過ぎであろうか。かれこれ一刻以上もの間、この暑熱の中、自分は同じ場所に立ち続けていたことになる。