暦 ―こよみ―
如月(二)初訪問
由紀子が風呂から上がると、まだみんなダイニングでお茶を飲んでいた。
「由紀子、直樹さんて本当に素敵な方ね、お母さん気に入ったわ」
「別にお母さんが気に入ってもしょうがないじゃない。でも、私もあんなお兄さんなら自慢できるわ」
「あら、早紀子だっていったい誰に自慢するつもりなの?」
「決まってるじゃない、友だちによ。ああ、ジュエリー売り場じゃなくてアパレル売り場だったら、友だちを引き連れて行けるのにな〜」
保子と早紀子の会話に和孝が加わった。
「ふたりで何を勝手なことを言っているんだ。今日一度会ったくらいで、どんな人物かなんてわかるわけない!」
「あら、お父さんはお姉ちゃんがどんな人を連れてきても、きっとそう言うと思うわ」
「そうね、由紀子もかわいそうだわね」
そんな家族の話に背を向けたまま、由紀子は水を一杯飲むと、おやすみ、とだけ言って部屋を出た。
「あ、お姉ちゃん照れてるんだ」
「いいえ、疲れたのよ」
「俺も疲れた、寝るぞ」
今のデパートは昔と違い定休日というものがない。従業員の勤務体制はシフトが組まれ、直樹の基本的な休日は月曜と木曜になっていた。客足が多い土日は多くの社員が出社するように組まれていたため、そうそう土日に休みを取るというわけにはいかなかった。
直樹は自分の休日のこの日、真中家を訪れた。でも、木曜という平日だったので由紀子の仕事が終わるのを待ち、駅で落ち合いふたりで家族の待つ家へ向かった。
駅からの道を並んで歩くふたり、スーツ姿の長身の直樹と、長い髪をゆるやかになびかせた優しい装いの由紀子は、誰が見ても似合いのカップルだった。
「ご家族で最初にお会いしたのが、おじいさんとおばあさんというのは珍しいケースでしょうね」
「たしかにそうですね」
祖父母たちがこの人に巡りあわせてくれたのだ、と改めて由紀子は思った。
「あのー祖父たちとデパートに寄ったことは家族に話していませんので……その……」
「わかりました。ネックレスのことは内緒ですね。それでは友人の紹介で出会ったことにしましょう」
「すみません……」
即座に由紀子の気持ちをおもんばかってくれた直樹に、由紀子は感謝し、信頼できる人だという思いを深めた。
「ところで、どのようなご家族ですか?」
「そうですね、それぞれをひと言でいえば、父は不器用だけど温かい人、母は明るくて楽しいけれどちょっとおしゃべり。妹は歳が離れているせいかまるで宇宙人。良くも悪くも私とは正反対。そんなところです」
「そうですか、ご家族にお会いするのが楽しみになってきました。私は前にも申しましたが、母とふたりだけなので静かなものです。今度ぜひ、うちにも来てください。由紀子さんを母に紹介したいので」
まだ一度デートをしただけの人にそう言われ、由紀子は戸惑い、さっきまでの浮き浮きとした気持ちが遠のいていくのを感じた。
そう言えば、私の方こそどうしていきなり家へ招いてしまったのだろう?
平気で家へ彼を連れてくる妹に触発されてしまったのだろうか? というより、初めて正式に交際を申し込まれたことで、由紀子の優等生の部分が親に紹介するということにつながったのだろう。
とはいえ、いかにも早すぎたのではないか? 心の隅で後悔の念が沸々と湧いてくるのを押しとどめるのが精いっぱいで、直樹の誘いに答える余裕もなく、由紀子はただうつむくしかなかった。
直樹を迎えた食卓はにぎやかだった。
保子や早紀子は根っからの明るさを発揮し、和孝も初対面の相手に対してめずらしく言葉が弾んだ。女の中に男ひとりの環境に現れた救世主だったのかもしれない。結婚してから家に寄りつかなくなった息子浩一の代わりが現れたようなものだから。久しぶりに家で酒を酌み交わせる相手に出会え、和孝は上機嫌だった。
早紀子も初めて姉が連れてきた異性に興味津々。
「今日はバレンタインだから、もちろんお姉さんからチョコレートもらったんでしょ?」
「早紀子ったら……」
由紀子は困った様子で妹を制した。
「先週お話を始めたばかりだから、まだそんな――」
戸惑う由紀子を気遣うように直樹が笑顔で答えた。
「早紀子さん、来年もし貰ったら報告しますね」
「な〜んだ、この日を選ぶなんてお姉さんにしては上出来だと思ったのに偶然だったってことか」
「ごめんなさいね、この子ったら変なことを言い出して。由紀子はあなたみたいにバレンタインとか言って騒いだりしないのよ」
保子が口を挟んだ。
「あら、私も今年は誰にもあげていないわ。彼とは去年のクリスマスに別れたし」
「え、そうなの?」
由紀子が驚いて聞いた。
「だって、試験勉強しろって、親みたいにうるさく言うんですもの。もう面倒くさくなっちゃった」
「あんたって子は……」
保子は呆れた様子だったが、和孝や直樹は面白そうにそんな母子のやり取りを聞いていた。
由紀子も、そんなみんなの様子を見ていてとても楽しかった。直樹の初めての訪問は二時間ほどで終わり、家族みんなに好印象を残し帰って行った。
すると、由紀子はどっと疲れを感じ、後片付けを終えるとさっさと風呂場に向かった。そして、浴槽につかりながら、この日が直樹と自分にとってどんな日になるのだろうと考えた。
これで家族公認の仲になった。この歳で公認といえば、婚約、結婚への道を歩き出したことになるのではないだろうか…… でも、自分はまだ直樹を愛しているとか、生涯の伴侶にするとか、そんなことは考えられない。それで、ここまで来てしまってはたしてよかったのだろうか?
「母に紹介したいので……」
直樹のその言葉が、由紀子の心に重くのしかかった。
一方、その頃、リビングでは――
「お父さんさっきまではあんなに楽しそうで、直樹さんを気にいったものだとばかり」
「付き合うのはいい、でもその先の話は何とも言えん」
「ふ〜ん。お父さん酔いが冷めて現実に怯えだしたんだ」
早紀子に言い当てられた和孝は、反撃に出た。
「早紀子、合格発表はそろそろだったよな?」
「ええ、お父さん、それが明日なんですよ」
保子が答えた。
「おっと、この話題を出してくるとは、父親ながら見事な切り替えしだわ」
「早紀子、自分では感触はどうなんだ?」
「あ、お姉さんがお風呂から出てきたわ。今日の主役は私ではなくお姉さんよ」
それぞれの思いを巡らせ、四人は床に就いた。
和孝――
「由紀子も二十八歳か……たしかにもう嫁にいく歳だな」
保子――
「あの人なら、由紀子を大切にしてくれそうだわ」
早紀子――
「ルックスもいいし人柄もいいなんて、お姉さんラッキーね」
そして由紀子は、
「来年の今頃、私はどうしているのかしら……」
心からそれを知りたいと思うのだった。