暦 ―こよみ―
葉月(二)大切な人への報告
お盆休みも終わり、いつもの日常が戻ってきた頃、金沢へ行く日がやって来た。直樹と由紀子は休暇を取り、二泊三日の予定で金沢の由紀子の祖父母宅へと向かった。
新幹線の座席に向かい合って座ったふたりは、窓の外の景色に目をやることもなく、幸福感を隠しきれない様子で互いを見つめ合った。
(おじいちゃんもおばあちゃんも驚くだろうな……)
(おふたりには、何と言えばこの感謝の思いが伝わるだろう……)
「この前、早紀子ったらね……」
愛する人との初めての旅行に、すっかり有頂天になった由紀子の話は止まらない。そんな由紀子の相手をする直樹もまた、内心、由紀子以上に興奮していた。それを素直に表現するのは女の可愛さになるが、男の場合はそうはいかない。心に押しとどめるのが大人の男というものだろう。
やがて、ふたりは金沢に着き、すぐに由紀子の父の実家へ向かった。一時間ほど電車に揺られ、バスに乗り換え三十分。目的の停留所で降りると、そこは畑の真ん中だった。
雪国金沢の夏は思ったより暑い。でも、辺り一面自然に囲まれているせいか、都会の暑さとは明らかに違う。緑から黄色に色づき始めた稲穂が、気持ちよさそうに風に揺れていた。
農道を歩きながら、由紀子は何とも言えぬ開放感に浸った。東京を遠く離れた自然の中、見渡す限り人の姿はない。今この場に存在するのは直樹と自分だけ。そう、ここはまさにふたりだけの世界。空の青さも、吹き抜ける風も、そして空に浮かぶ白い雲さえも、自分たちを祝福し温かく見守ってくれている。そんな恋する者のみに訪れる、幸せ溢れる夢の空間に今、自分たちはいる……。
直樹もまた、同じようなことを感じていた。ただそこには、男と女の違いが存在した。夢の世界に酔いしれる乙女心の由紀子とは違い、この腕に抱きしめたこともない恋人との距離感に不満を抱いてしまう男心を、直樹は持て余していた。
前に一度、それもほんの一瞬触れた由紀子の唇の感触――それは拒絶に近いものだった。そして、それは固く閉ざされた由紀子の体をも物語っている。プラトニックの中に生きている清純な由紀子を、生身の人間として愛せる日が来るのだろうか? いったいどうすればそれを手に入れることができるのだろうか……。
祖父の真中栄吉と祖母の文江には、同行者がいることは伝えていない。ひとりで来ると思っていた由紀子が男性同伴、それも婚約者であり、その上あの時の店員だとわかったらどんなに驚くだろう。でも、もう半年も前のこと、買い物で一度接客してくれた店員など、覚えているわけはないかもしれない。まして、ふたりとも高齢である。
見覚えるのある玄関の前に着くと、由紀子は足を止め、直樹を見上げた。直樹はやさしく微笑み、さあ、行きましょう、とその目で語りかけた。
思った通り、ふたりの姿を見た栄吉と文江は目を丸くして驚いた。
「由紀子、あまり驚かせないでおくれよ、なあ、ばあさん」
「本当に、でもよくお似合いだわ。どうぞ、お上がり下さいな」
茶の間に通され、四人は向かい合って座った。
「初めまして、とご挨拶するところですが、実は、以前にお会いしたことがありますので、お久しぶりです、と申し上げます。
水沢直樹と申します」
直樹が口火を切って改まった挨拶をした。
「はて、いつお会いしましたっけ?」
「おじいちゃん、これ、本当にありがとう」
由紀子は胸元のネックレスを指し示した。
「おお、つけてきてくれたんだね。ばあさんは大事にしまっているよ」
「あら、おばあちゃん、おそろいですもの、いっしょにつけましょうよ」
「ときどき出しては眺めているのよ、由紀ちゃんのことを思いだしてね」
「このネックレスがおばあちゃんと私を繋いでくれているということね。それからもう一人……」
由紀子が、直樹の方を見て続けた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、これを買ってくれた時、勧めてくれた店員さんのこと覚えてる?」
「そうだな……たしか若い男の人だった気がするな、そうそうこの人みたいに背の高い……え! もしかして?」
「はい、僕があの時、接客させていただいた者です。その節はお買い上げありがとうございました」
由紀子はクスッと笑い、栄吉と文江は懸命に当時のことを思いだそうとした。
「それじゃ、あの時がご縁ということですかな?」
「はい、おじいさんとおばあさんにはなんとお礼を申し上げればいいのか。あの時の三人の仲の良いご様子がとても印象に残り、由紀子さんが再来店された時、お付き合いさせていただきたいと強く思いました」
「早紀ちゃんの卒業祝いを買いに行ったの」
直樹がそんなことまで話すとは思わなかったので、由紀子は慌てて付け加えた。
「そうかそうか、由紀子もこの人を気に入ったということだね」
「私は気づいていましたよ、由紀ちゃんの様子に。お父さん、私言ったじゃないですか、帰りの新幹線で。あんな青年が由紀ちゃんにはお似合いだねって」
「そうだったかな……」
「おじいさん、おばあさん、このたび、おかげさまで僕たちは婚約いたしました。今日はそのご報告にあがりました。由紀子さんのことは生涯大切にさせていただきますので、どうぞ、ご安心ください。
そして、出会いの場を与えて下さった、おじいさんとおばあさんに心から感謝しています。本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします」
「まあまあ、ご丁寧に。こちらこそ、末長くお付き合いくださいね」
「ばあさん、わしらはそう長くはお付き合い願えないさ。でも、由紀子のことはくれぐれもよろしく頼みますよ」
「いやだ、おじいちゃんたら、そんなこと言って……」
「堅苦しい挨拶はこれくらいにして。かわいい孫が増えたんだ、今夜は、ばあさんの手料理でも食べて行っておくれ」