暦 ―こよみ―
葉月(一)結婚への道
八月に入り、連日猛暑日が続いている。そんな中、直樹と由紀子はふたりの未来予想図作りをスタートした。正式に婚約を交わしたこれから、やるべきことは山積みだった。
でも、だからと言って、半年という時間をかけて本当の恋人同士になれたふたりは、甘い時を楽しむことも忘れたりはしない。目を奪われる美しい景色や美味しい食事を共にするデートにもしっかりと時間を費やした。そうして、もうわずかに限られた恋人同士の期間を満喫するのだった。
二人が結婚の準備としてまず手を付けたのは式場探し。今は情報が溢れすぎていて、かえって決めることが困難のように思われる。結婚情報雑誌を見たり、ネットで検索したりすればするほど、あそこもいい、ここも素敵で、拉致が明かない。
「由紀子さん、どうだろう、いっそのこと金沢で挙げるというのは?おじいさんやおばあさんが東京に出てくるのは大変でしょうし、金沢というのが由紀子さんの古風なイメージにぴったりのような気がして」
「そんな……でも直樹さんありがとう、おじいちゃんたちを気遣ってくれて。でも、それでは他の人たちにご迷惑だわ。いくら新幹線が通ったと言っても、やっぱり遠いですもの」
「それもそうだね。兼六園に佇む白無垢姿の由紀子さんは僕の心の中にとどめておくことにするか」
「直樹さん、ご期待に添えないかもしれないわ。実は私、ウェディングドレスに憧れていて……」
「え! それは意外だったな。でも、ウェディングドレス姿の由紀子さんももちろん大歓迎ですよ。おじいさんたちには、遠路ご足労お願いすることになりますから、前もってこちらに来ていただいてゆっくりしてもらいましょう」
「ええ、それでそのおじいちゃんたちに、このことを報告に行こうと思うんですけど」
「もちろん僕もご一緒させてもらいますよ。おじいさんにも由紀子さんをいただきに上がろうと思っていたので」
「そんな……そこまでしていただかなくても」
「いいえ、僕たちの出会いはあのお二人のおかげですから」
「たしかにそうですけど……」
「出会い以降は早紀ちゃんのおかげかな」
直樹は、いたずらっぽく微笑んだ。
「たしかに、それもそうですね」
由紀子は、早紀子のこれまでの自分への協力を振り返り、改めてその有難みが身に染みる思いがした。
それまでは、いくら直樹がアプローチしてくれてもどこか迷いが拭えなかった。気遣いの達人である直樹はそれを察して、それ以上踏み込むことができず、ふたりの仲は硬直状態に陥っていた。それを打破してくれたのは、あの早紀子だ。
いささか乱暴な嘘ではあったが、効果はてきめんだった。それ以前も何かにつけ相談に乗ってくれた早紀子。恋愛に関しては、姉妹の立場は完全に逆転していた。
「それなら私も、直樹さんのおじいさまとおばあさまにご挨拶に伺いますね。小学校に上がるまで、直樹さんを育てて下さった大切な方たちですもの」
「ありがとう。僕も自慢の婚約者を披露したいから、そのうちに時間を作りましょう」
結局、式場は都内のホテルに決まった。日にちは年明けの一月十二日、大安の日曜だ。そんな日を運よく抑えられたというのは幸先がいい。後の細かい打ち合わせはもう少し先になるので、今度は新居の相談を始めた。と言っても、まだ半年も先のことなので、どの地域にするかくらいだったが。
そこで浮上したのが、横浜の伯母の家の離れだった。長く人が住まないと家がダメになるので、伯母たちは人に貸すことを考えたが、知らない人に貸すのは気が進まない、そうこぼしていたという話を母から聞いていたからだ。
「それなら、すぐにでも僕が住まわせてもらおうかな。その方が母が早く黒木おじさんのところへ行けるでしょうから」
直樹の母美沙子は、直樹が結婚するまでは直樹と共に暮らし、そして直樹を送り出したら、黒木の元に行くことに決めているようだった。
その夜、由紀子はその話を母にしてみた。
「私たちの新居のことなんだけど、横浜の伯母さんの離れが空いていて、伯母さんたちは誰かに貸したいのよね? 私たちではどうかしら?」
「そうね、あなたたちならお義姉さんも安心だわね。でも、横浜で遠くない?」
「ええ、直樹さんも私も勤め先から少し遠くなるけれど、交通の便は悪くないから大丈夫よ」
「そう、じゃ、ちょっと聞いてみるわね」
「ええ、それで私は式後になるけど、直樹さんだけ先にお借りしてもいいそうよ」
「あら、そう。それはお義姉さん、助かると思うわ」
「ちょっと待った!」
早紀子が部屋に入ってきて、二人の話に割り込んだ。
「今、廊下で聞こえてきたんだけど、横浜の伯母さんの離れ、ちょっと借りたい人がいるんだよね。今夜話そうと思っていたんだけど、まさかお姉さんに先を越されるとは思わなかったわ」
「誰なの、その人、早紀子のお友だち?」
「ええ、介護士の講習会で知り合ったんだけど、長野から一人で出てきて、バイトしながら介護士を目指してるんだよね。こっちは家賃が高くて食べる物を削ってがんばってるんだ。だから伯母さんのところを格安で借りられないかと思って」
「まあ、それは大変ね。私たちはどこでもいいのだから、もちろん譲るわよ」
「お姉さんならそう言ってくれると思った」
「でも、そういえば早紀ちゃん、講習会はもう終わるんじゃないの?」
「ええ、あともう少し。今、いっしょに就職先を探しているところよ」
「ちょっと待って、早紀子、まさかその人男の人じゃないでしょうね?」
母のするどい指摘にひるむこともなく、早紀子は平然と答えた。
「そうよ、私の彼よ」
「早紀子! あんたまさかその人といっしょに暮らすとか言い出すんじゃないでしょうね?!」
「それも考えたけどやめておくわ、お姉さんが片付くまでは。順番は守らなくちゃね」
「早紀子!!」
保子が悲鳴に近い声を上げた。
由紀子は呆れながらも、保子ほどは心配ではなかった。早紀子がどんなにしっかりしているか、由紀子にはよくわかっているのだから。