暦 ―こよみ―
文月(一)事の顛末
梅雨の晴れ間が広がる中、直樹の退院の日を迎えた。この十日間、仕事帰りに毎日通ったこの病院とも今日でお別れとなる。由紀子はこの日休みを取り、直樹を迎えに来ていた。
患者が待つ広いロビーを抜け、病棟の入り口に向かう。いつもはひとりで通った廊下も、帰りは直樹とふたりだった。
両手に荷物を持ち、直樹に寄り添い病院の出口まで来ると、顔見知りの看護師に声をかけられた。
「あら、今日退院だったわね、おめでとう」
「お世話になりました」
「今日はお母さんは見えないのね。あ、そうか、気を利かしたのね」
「いや、仕事なもので」
「そうね、そういうことにしておきましょう。じゃ、気をつけてね、お大事に。
そしてお幸せに」
ふたりは恥ずかしそうに顔を見合わせて頭を下げ、病院を後にした。
先月のあの日、早紀子とタクシーを走らせて、この病院へ駆け込んだ時のことを由紀子は思い出していた。
病気なのか? ケガなのか? どんな状態なのか何もわからないまま、美沙子からの電話でこの病院に駆けつけた。驚きの一報に、由紀子は詳細を聞かずに電話を切ってしまった。いや、あまりの怖さに反射的にそうしたのかもしれない。
だから息を切らして駆け付けたものの、いざ、病室の前に立つと、由紀子は足がすくんだ。ドアを開ける時のあの恐怖は、今思い出しても身震いがする。いったい、直樹はどんな姿になっているのか……。
震える手でノックをして部屋に入ると、ベッドに横たわる直樹が目に飛び込んできた。
無事だった……もう由紀子には、他のものは何も目に入らなかった。その傍らに走り寄り、人目もはばからず、声を上げて泣いた。
生きていてくれた……ただそれだけで胸がいっぱいになり、心から安堵した。
その光景に、付き添っていた美沙子や、いっしょに駆けつけた早紀子は呆気にとられたが、誰より驚いたのは直樹本人だった。そして、自由に動く方の左手で、由紀子の頭をやさしく撫でた。
しばらくして、落ち着きを取り戻した由紀子を座らせ、美沙子が事態の説明を始めた。
あの日、そう、ちょうど早紀子が姉に嘘のメールを送った日の朝、美沙子の元に、姉が倒れたという連絡が入った。それが事の発端だった。ちょうど休みだった直樹が、その伯母のところまで車で母を送っていくことになったのだ。
美沙子の姉は山梨に住んでいる。その日は平日とあって道路は空いていて、順調なドライブが続いた。
しかし、もう目的の病院はすぐそこというところで、出合いがしらの事故に遭ってしまった。信号のない小さな交差点での、相手の一時停止無視によるものだった。右からぶつけられたため、運転席側の直樹が右腕を骨折したが、助手席の美沙子は、幸い軽い鞭打ちですんだ。
二人は、美沙子の姉を見舞いに行くはずだった病院に運びこまれ、直樹は緊急手術を受けることになった。その時、直樹は母に、由紀子には知らせないよう固く口止めをした。
律儀な由紀子のことだから、知れば無理をしてでもここまでやって来るだろう。それでは大変だから、東京へ戻ってから知らせるからと。その時は手術が終われば、明日にでも東京に帰れると思っていた。
ところが、思いのほか手術は長引き、麻酔が完全に覚める頃には丸一日がたっていた。その上頭を打ったことで検査が続き、付き添う美沙子は、直樹の容態にすっかり気を取られた。直樹から、由紀子に知らせることを止められていたこともあり、時間はそうやって過ぎて行った。
そして、ようやく検査も終わり、容態が安定したところで、東京の設備の整った病院で念のための精密検査とリハビリをするよう勧められた。
そこで二人は初めて、由紀子にはどう伝えるか相談した。こんなに長引くと思わず、連絡するタイミングを逸してしまっていたからだ。しかし、今知らせたら、これまで連絡しなかった意味がないということで、結局、東京へ転院してから連絡することにした。
でも、美沙子はふと不安に思った。一週間近くも連絡しないのに、預かっていた直樹の携帯に、由紀子から連絡がくることはなかった。直樹から連絡がなければそのままにしておくつもりなのだろうか? いつもそうなのだろうか? 由紀子は直樹のことをいったいどう思っているのだろうか?
直樹もまた、同じ思いを抱えていた。治療や検査が落ち着くと、由紀子のことが気になりだした。母が触れないところをみると、由紀子からの連絡はないのだろう。
たしかに普段から連絡を入れるのはほとんどが直樹の方からで、由紀子は返信が主だった。でも、これだけ間が空けば、普通、連絡してくるものではないだろうか? 一週間もの間、自分から連絡がなくても由紀子は気にならない、だとしたら、やはり自分の思いは由紀子に届いていないということか……。
そして訪れたあの対面の光景――それを目の当たりにして、美沙子は安心したと同時に、不思議に思った。あれほど心配してくれていたのなら、どうして一度も連絡をくれなかったのだろうか?と。
同じ疑問を抱えた直樹は、後で、由紀子からあの一週間の出来事を聞いた。直樹から同じくそれを聞いた美沙子は、功労者の妹、早紀子に心から感謝した。
東京の病院へ転院して行われた精密検査を終え、退院したものの、利き腕の骨折というのは生活にかなりの支障を与える。由紀子はそばについて世話をしたかったが、今のふたりの関係では、それは母の美沙子に任せるしかない。
直樹の部屋で、入院中の荷物の片づけを手伝ってくれている由紀子を愛おしそうにながめながら、直樹が言った。
「この歳になって母親の世話になるとはね。あ〜あ、由紀子さんがよかったなあ。この次は、そばについていてもらえますよね?」
「ええ、私もぜひ、お世話をしたかったです。でも、もう事故なんてこりごり。冗談でも、この次なんて言わないでください!」
「申し訳ない。でも、由紀子さんがあんなに僕のことを想ってくれていたなんて思いもしなかったなあ。痛みがいっぺんに吹き飛んだみたいでしたよ。地獄に仏、いや天使かな〜あの時の由紀子さん、本当にかわいかった……」
由紀子自身、あの時の自分の行動が未だ信じられない。
タクシーの中で、もしかしたら直樹にはもう二度と会えないかもしれない、そんな不吉な思いと格闘した。そして、病室の前では、ひょっとしたら、変わり果てた直樹と対面するかもしれない、そんな悲壮な思いを抱えていた由紀子だったので、ベッドの上の笑顔の直樹を見た時は、もう我を忘れていた。
いつのまに、こんなに直樹が心に入り込んでいたのだろう? いつから、こんなに大切な人になっていたのだろう?
「恥ずかしいから、もうその話はやめてください。
そう言えば、父と母からお見舞いに伺わなくてすみませんという伝言を預かって来ました」
「そんな、こちらこそ、お見舞いを頂戴した上に、由紀子さんを毎日お借りしてしまったのですから、お詫びしておいてくださいね」
「はい、伝えておきます。直樹さんは来週から出勤するんでしたよね?」