暦 ―こよみ―
水無月(四)由紀子の葛藤
早紀子からとんでもないメールが来たその日から、由紀子はすべてが上の空だった。
早く早紀子をつかまえて事実を確認し、もしそれが本当であれば、早急に対処しなければならない。しかし、早紀子はその日、友だちのところへ泊ると母に連絡を入れ、帰ることはなかった。そして、翌日からはそのまま、前から誘われていたからと横浜の伯母のところへ泊まり込み、顔を合わせる機会を持つことができなかった。
電話をしようともしたのだが、今日は帰ってくるだろうから、ちゃんと会って話をしようと思った。電話などで済ませるような簡単な話ではない。ところがまた、今日も早紀子は帰って来なかった。
両親に心配をかけないよう平静を装ったが、由紀子は毎日気が気ではなかった。一日でも早く、直樹に訂正しなければ。でも、だからと言って、妹が嘘をついたとは言えないではないか。妹を悪く思われたくない。では、なんて言えばいいのだろう?
それに、直樹の立場から考えれば、妹を使って交際を断るなんて、最低な行為に違いない。さすがの直樹も嫌気がさしただろう。私は嫌われたのかもしれない。早く誤解を解かなければ、取り返しのつかないことに……でも、姉妹であれこれ話していたことも当然気がつかれているわけで、もう恥ずかしくて顔向けできない。
それにしても、まさか早紀子がそこまでするとは思わなかった。その上、そんな妹の言葉を鵜呑みにして、直樹が連絡を絶つとはとても信じられない。あの直樹が……そんな二重のショックに、由紀子は打ちのめされた。大切な人を一度に二人失ってしまったようで、気持ちは深く深く沈んでいく。
なんだかんだ言っても、妹はまだ十八歳だ。そんな子どもに相談した自分が悪いのだが、直樹だって、あんなに自分を追い求めていたというのに、妹の伝言ひとつであっさりと心変わりしてしまうのだろうか? 結婚まで考えていたのではなかったのか?
由紀子は怒りと悲しみ、そして言い知れぬ寂しさに繰り返し襲われた。もう何も信じられない。男性不信、いや、人間不信に陥りそうだった。あらゆる感情がこの一週間の間に由紀子の中を駆け巡った。
そうして、結局何もできないまま、時間だけが過ぎて行った。
そして、次の日曜、ようやく帰ってきた早紀子の顔を見た途端、由紀子の目には涙が溢れた。
怒っているんだか、謝ってほしいんだか、それとも慰めてほしいんだか、自分でもわからない。
自分を見つめるそんな姉の様子を見て、早紀子が何か言おうとしたその時、由紀子の携帯が鳴った。
「はい、あ、お母さん、お久しぶりです。え! はい、すぐに行きます!」
由紀子の顔色が変わるのを見て、早紀子の心にも不安が広がった。
「お姉さん、どうしたの?」
「直樹さんが入院したんですって、私、すぐ行かなくちゃ」
「お姉さん、私も行く!」
タクシーの中で、姉妹は一週間ぶりに会話した。
「お姉さん……」
由紀子は、現在の直樹のことで頭がいっぱいだった。いったい、何が起こったというのか?
そんな由紀子に、早紀子が小声で言った。
「あのね、嘘なの……」
「え?」
由紀子の頭から一瞬、直樹へのただならぬ不安が遠のき、早紀子の言葉に神経を集中した。早紀子はめずらしく殊勝な面持ちで下を向いて謝った。
「ごめんなさい……」
「嘘って、直樹さんには何も言ってないってこと?」
「ええ、そう」
由紀子はわけがわからなくなった。それならこの一週間近く、どうして直樹から何の連絡もなかったのか? 早紀子が何も言っていないのなら、どうして定期便は途絶えたのか? 今回の入院という二文字が由紀子の不安をかきたてた。
怒るどころか、不安で表情を曇らせる姉を見て、心配げに早紀子が尋ねた。
「お姉さん、直樹さんからはずっと連絡がなかったの?」
「ええ……」
「私、その日のうちに嘘がばれて、お姉さんが怒っているだろうと思って帰りそびれていたの。まさか、直樹さんからずっと連絡がないなんて思ってもいなかったから。だって、そんなこと考えられないもの。でも、さっきお姉さんの顔を見て、もしかしたら、と思ったの」
その言葉は由紀子の不安に追い打ちをかけた。
「おかしいよね、直樹さん、一週間も連絡ができないほど大変な状況だってこと?」
とどめの一言に、由紀子は声を荒げた。
「早紀ちゃん! やめて!!」
そこには、早紀子が今まで見たことのない姉がいた。そのするどい表情、震える唇に、一瞬、たじろいだ早紀子だったが、心の中でそっと呟いた。
(お姉さん、よかったね、とうとう恋愛ができたんだね)