暦 ―こよみ―
水無月(一)政興の決意
六月らしいまとわりつくような空気に包まれたその朝、真中家は誰もが落ち着かない時間を過ごしていた。休日であるのに、それぞれが平日のような動きをしている。そう、誰もがその時を待っているのだ。
午後になり、節子夫婦が到着した。そして当然のように、みんなで政興の話をあれこれと推測し合った。
「きっと兄さんは、事務所の後継者に名乗りを上げたのよ。あの香津子さんにお尻を叩かれて」
そう言う節子に夫の重雄が言った。
「じゃ、なんで世田谷で話をしないんだ?」
「それは香津子さんが主導であることを見られたくないからよ。兄さんにだってプライドがあるでしょう?」
そんな節子の意見に弟の和孝が反論した。
「いや、兄貴は独立すると決めたのだと思うよ。俺はてっきり、これまで通り番頭役を続けていくと思っていたんだが、こうやってみんなを集めるということは、大きな決断をしたに違いないさ。
葬式の時に見ただろう? 会葬者は喪主の正志君より、熱心に兄貴に言葉をかけていたよな。あれできっと正志君とうまくやっていけなくなったんだよ。だからと言って、正志君から事務所を奪い取るようなことはあの兄貴には出来ないだろう? 結局、自分が出て行くことになったんだろうな」
今度は妻の保子が反論した。
「それなら、何も私たちみんなをそろえて話す必要はないんじゃない? ふだんからそんなに行き来をしているわけでもないんですから。電話で、今度独立することになった、とひと言伝えれば済むことでしょう? だって、私たちにそんなに関わりの深いことではないんですもの」
「たしかにそうだが、あの兄貴に限って、無駄に騒ぎ立ててみんなを呼び集めるとは考えにくいじゃないか、きっと俺たちにも何か関わりがある話だと思うよ」
「まあ、あと一時間もすれば謎はすべて解けるわけね」
「たしかに、早紀ちゃんの言う通りだわ。ここであれこれ言ってもしょうがないわね」
お気に入りの早紀子の言葉に節子が微笑んだ。
しばらくして、いよいよ主役の政興が到着した。みんな、挨拶もそこそこに話の本題を待ち望んだ。
「今日はすまなかったね、せっかくの日曜だというのに、私のことでこうして集まってもらって」
「兄さん、話っていったい何なの?」
節子が待ちきれないとばかりに尋ねた。
「その前に、義父の葬儀の時はそろって来てもらってありがとう。いろいろと後始末に追われて、礼を言うのが遅くなってしまった」
「話って、そのことに関係があるんでしょ?」
「ああ、そうなんだ。ようやく落ち着いたからみんなに報告しに来たんだ」
一同は固唾を飲んで政興の次の言葉を待った。
「私は金沢に帰ることにしたよ」
あまりに意外なそのひとことに、そこにいる誰もがその意味を理解できなかった。
「もっとちゃんと説明してくれないとわからないよ。事務所はどうするんだい? 金沢に帰るって一時的なことなのかい?」
和孝の質問は誰もが聞きたいことだった。
「そうだな、唐突だったな。まず事務所のことだが、もちろん、後継者は正志君だから、私には関係ないことだよ。会社の規定の退職金をもらって辞めることになった」
「舅さんがいなくなって居づらくなったってことか?」
「本来なら、正志君を助けて事務所を盛り立てていくべきなのだろうが、むしろ私がいると新所長の正志君がやりづらいだろうと思ってな」
「よく、香津子さんが承知したわね?」
節子が驚きを隠さずに聞いた。
「それが……妻とは離婚することになった」
一同はあまりの驚きに黙り込んでしまった。
「妻は東京を離れるつもりはないそうだ。それに最後まで、私が事務所を正志君に任せることに納得してはくれなかった」
「それはそうでしょう、私だって今回ばかりは香津子さんの気持ちがわかるわ。息子の久興ちゃんのことだってあるわけだし、兄さんにはまだまだ、いいえ、これからもっとがんばってもらわなければと思うわよ。なんでまた、金沢に帰らなければならないの?」
節子が納得できないとばかりに政興に詰め寄った。
「節子、私は長男だよ、今まで勝手をさせてもらってきたが、最期くらいは長男らしいことがしたいんだよ。事務所のことだって同じなんだ。義父への最期の奉公なんだよ。いくら私に目をかけてくれたと言っても、義父だってやはり実の息子に継いでもらう方がいいに決まっている。私がいたのでは、妻との間で姉弟の争いが起こりかねないから、それだけはどうしても避けたかったんだよ」
もう誰も質問はしなくなり、ただ黙って政興の話を聞いていた。
「息子たちも、それぞれ、弁護士と医者になり、親がかりではなくなった。父親の遺産で妻は暮らしに困ることもない。もともと、家も土地も妻の名義だから、私は身軽に金沢の実家に転がり込ませてもらうよ。
落ち着いたら、近くに小さな事務所を構えて、地元の人の役に立てればと考えている。それくらいの退職金はもらえるはずだからな。
今まで、妻が長男の嫁としての務めを果たせなくて申し訳なかったな。私が強く言えないものだから、みんなに顔向けができなくて、つい、こちらにも足が遠のいてしまった。
これからは金沢の父と母のことは、私に任せてほしい。今までできなかった孝行をするつもりだから」
自分の思いを伝え終えると、雑務で忙しいからと政興は帰って行った。残された六人はそれぞれに思いを巡らせながら、静かにお茶を飲んでいた。
「やっぱり、兄さんは立派ね。仕事の関係者が一目置くだけのことはあるわ」
「そうだな、あんな兄貴が長男でよかったな」
「そうね、父さんや母さんも、兄さんが帰ってくると知ったら、きっと喜ぶでしょうね」
「ああ、実は親父たちのこと、このままでいいものか、俺も気になっていたんだ。
正月に久しぶりに親父たちを見たら、すっかり歳をとっていたからな。遠く離れた金沢でふたりだけにしておいていいものかと。そうは思っても、なかなか実際に動くとなるとな。でも、さすが兄貴だ、これで、安心だよ」
「でもあなた、離婚ですよ。喜んでいいものですかね」
「そうよ和ちゃん、保子さんの言う通りだわ。つい、お父さんたちのことを考えて喜んでしまったけど、ひとつの家庭が壊れたんですからね」
「そうだったな」
「でも、ここだけの話、兄さんが戻ってきてくれたのが嬉しいというのが本音だわ。あの香津子さんとはどうにもウマが合わなかったから」
「姉さん……」
身近で起こった離婚、それも長年連れ添った上での熟年離婚。
由紀子にとって、またひとつ、結婚というものに対する疑問が増えたような気がした。
でも、いけないことかもしれないが、父の言うように、祖父母のことを思えば良かったと思ってしまう。そして、久しぶりに祖父母の顔が浮かんだ。
(そうだ、会いに行こう、夏休みにはきっと)