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暦 ―こよみ―

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皐月(四)弁護士事務所の行方


 その日の真中家の夕食は、和孝の兄政興の話が続き、食事が終わっても、由紀子と早紀子までもが残ってその話に聞き入っていた。
「お義兄さん、本当にどうされるんでしょうね?」
「さあな、とにかく通夜葬儀には母さんもいっしょに行ってくれよな。姉さんのところはどうするかな。姉さんの姑さんの時は、たしか兄貴ひとりが通夜にだけ顔を出したよな」
 政興の舅、鵜原源次郎が昨夜亡くなったとの連絡が入った。
 政興は源次郎にその手腕を買われ、源次郎が経営する弁護士事務所に入ったことで、政興の弁護士人生は大きく飛躍を遂げた。跡取り息子、正志がいるにもかかわらず、源次郎は政興にひとかたならぬ期待をかけた。政興もその気持ちに答え、事務所はさらに大きくなり、加えて源次郎の娘香津子との結婚により、政興の立場は盤石なものとなった。それでも律儀で温厚な政興は、正志との関係に心を配り、野心のかけらも見せることはなかった。
 そんな兄にとって大恩ある舅が他界した。付き合いが疎遠になりつつあるとはいえ、兄弟の自分たちはそろって、お悔やみの情を表すのが礼儀というものだろう、と和孝は思った。
 
 通夜葬儀ともに、それは盛大に行われた。
 駅から葬儀所までの道は喪服姿の人で埋まり、会場には収まりきれない献花が窮屈そうに並んでいた。さすが大手弁護士事務所を一代で構えた故人の葬儀である。真中家側からは、和孝夫婦と節子夫婦が参列した。
 驚くことに、弔問客は故人の息子である喪主の正志より、事務所古参の政興の方に挨拶する人が多く、その影響力の大きさをうかがわせた。その様子は、和孝と節子に一抹の不安を感じさせるものだった。
 
 数日後、節子は和孝の家を訪れた。そして、早速先日の葬儀の話になった。
「兄さん、あれは大変だわ」
「そうだな、あれでは息子が面白くないだろうな」
「そうよ、事務所はもちろん、遺産だって相当あるでしょう? どうやって分けるのかしらね」
「遺産の方は遺言でも遺してあるんじゃないか、あの舅さんのことだから。それより問題は事務所の方だよ。簡単に二つに分けるというわけにはいかないからな」
「それにしても驚いたわ、兄さんの影響力があんなにすごいとは思わなかったもの」
「そうだな、あれでは、兄貴も息子もお互いにやりづらいだろうな」
「香津子さんだって黙っていないんじゃない? 弟よりやっぱり旦那よね。それに今度、新米とはいえ長男も加わったわけだから」
「そうだな、家族というものは重いから兄貴も頭が痛いだろうな。辛い立場に立ったものだ」
「あら、どちらに転んでもあの香津子さんがついているから大丈夫よ」
「どちらにとは?」
「もちろん、事務所の後継者か、独立かよ」
「俺は、兄貴はそのどちらも選ばないような気がするけどな」
「まさか今まで通り、あの息子の下で仕えていくというの?」
「ああ、それが兄貴らしいよ、先代にあれだけ世話になったんだから」
「世話になったって言ったって、途中からは今の事務所、兄さんの力で大きくなったって聞いたわよ。やっぱり兄さんが継ぐべきよ」
「世の中、そうはいかないさ」
「いいえ、兄さんがそれでいいと思っても、あの香津子さんが黙っていないはずよ。長男の将来だってかかっているんですもの」
「女は怖いな」
「何か言った?」
 ちょうど保子がお茶を持って和室に入ってきた。
「お義姉さん、夕飯召し上がっていくでしょ?」
「いいえ、あら、もうそんな時間? 私帰らなくちゃ。東京まで出てきたからちょっと寄っただけなのよ。まさか和ちゃんが会社休んでいるとは思わなかったから、つい話し込んでしまったわ」
「ああ、良かったよ、たまたま溜まっていた有休をとった日で」
「そうね、ゆっくり話ができてよかったわ。保子さん、早紀ちゃんにたまには遊びに来るように言ってね、忙しいだろうけど」
「早紀子は姉さんのお気に入りだもんな」
「ええ、あの子は面白くて本当にいい子。あ、もちろん由紀ちゃんもね」
 そう言うと、節子はそそくさと帰って行った。
「世田谷のお義兄さんの話?」
「ああ、どうなるんだろうな……」
「香津子さんがついているから大丈夫よ」
「姉さんと同じことを言うんだな」
「あらそう?」
「兄貴もすっかり恐妻家のレッテルを張られたもんだ」
 
 翌日、由紀子が仕事を終えて帰ってくると、食事の支度をしていた保子が手を止めて言った。
「お帰りなさい。由紀子、来週の日曜、空けておいてくれない?」
「何かあるの?」
「いえね、世田谷のお義兄さんがみんなに話があるんですって」
「そう、じゃ世田谷にみんな集まるのね」
「いいえ、それがね、うちに来るんですって」
「うちへ?」
「ええ、そういうことだから、早紀子にも言っておいてね」
 由紀子は政興の話というものがとても気になった。おそらく、舅亡き後の身の振り方だろう。後継者問題でお家騒動が勃発したのだろうか? あるいはすんなりと独立することになったのだろうか?
 どちらにせよ、それは政興の問題であって、兄弟である父や姪である自分たちにはことさら関係あることとは思えない。わざわざみんなを集めて、それも自宅ではなく、ここで話をするということに胸騒ぎを覚えた。自分たちだけに話して、世田谷の伯母に聞かせたくない話、それはいったい何だろう?

作品名:暦 ―こよみ― 作家名:鏡湖