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暦 ―こよみ―

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皐月(一)令和の宿で


 新しい御代の夜明け――令和の時代が幕を開けた。世の中全体がお祭りムードに包まれ、十連休という特別なゴールデンウィークとなった。
 その真っ只中、行楽地はどこも例外なく多くの観光客で賑わっていた。当然、そこへ行きつくまでのルートも大混雑だ。高速道路は車が長い列をなし、駅のホームは電車を待つ人で溢れてかえっている。
 その中に、小さな旅行カバンを提げた真中由紀子と水沢美沙子の姿があった。途中の駅で落ちあい、ここまでたどり着いたが、目的地の温泉まではまだしばらく、人の波に揉まれることになりそうだ。
 
 先月のデートで直樹の母、美沙子との温泉行きの話を耳にした時、もちろん由紀子は行く気など毛頭なかった。そんなことはあり得ない。交際相手とならまだしも、どうしてその母親と行くことができるだろう。考えただけで息がつまりそうだった。由紀子は後々響くことのない断りの理由だけを考えて過ごした。
 そんな時、兄の浩一から連絡が来た。なんと、あの翌日また直樹と飲んだという。浩一はすっかり直樹を気に入ってしまったらしい。そして、こう言った。
「直樹君は由紀子の兄ということで、俺をとても慕ってくれている。俺も直樹君を見習って、多恵の身内にもっと心を開こうと思うんだ。妻の家族は俺の家族でもあるからな」
 あの兄がそんなことを言うなんて……それを聞いた時は本当に驚いた。あれほど多恵の実家の愚痴をこぼしていた兄を、そんな気持ちにさせた直樹。
 それに引き替え自分は……誘われた旅行を断る理由を必死に探している。同じ努力でも、直樹とは正反対の方向を向いていることになるではないか。
 相手の家族は自分の家族……本当に相手を大切に思うのならば確かにその通りだ。正直、今の自分にとって直樹がどれほど大切かはまだわからない。だからこうして付き合っているのだ。その中で巡ってきたこの機会、思い切って行ってみようか……。もしも、それでよくない結果になったとしても、それはそれでこの縁はなかったということでお互い納得できるかもしれない。
 
 予約した宿に着いたのはもう夕方だった。途中、人気の観光地に寄り道をしたので、温泉に入り、夕食の膳についた時はやれやれという感じだった。
「お母さん、お疲れになったでしょう?」
「そうね、そんなに歩き回ったわけではないけれど、やっぱり人混みというのは疲れるわね」
「ゴールデンウィークですから、仕方ありませんね」
 ふたりは今日の出来事を振り返り、話に花を咲かせた。互いに、ビールも一杯ずつ口にした。年齢こそふた回り違うが、食べ物の好みやアルコールの量が似ていて話もよく合った。
 ふと、由紀子は、宿の浴衣姿で正面に座る美沙子の手元に目が止まった。品のよいピンク系のマニキュアとデザインリングが光っている。直樹のプレゼントだろうか? 指輪はともかく、ネイルの手入れなど、自分が美沙子の歳になってもはたしてするだろうか? と由紀子は思った。外へ出て働いているのだから、身だしなみの範疇かもしれないが、専業主婦の母を見慣れている由紀子には、女を感じさせる美沙子に複雑な思いがよぎった。
 それは同じ世代でありながら、女を卒業してしまった母を気の毒に思う気持ちと、娘としてはそうであってほしい気持ち、そしてまた、未来の姑にライバル心を持つかもしれないという、なんとも奇妙な思いが入り混じったものだった。そして最も気になるのは、これほど手抜きをしないということは、これからまだ女としての幸せを求めようとしているのではないか? ということだった。
 
 天気に恵まれたこの小旅行、これが大型連休でなく、もう少しゆったりと回れたら申し分なかった、という結論が出たところで、美沙子が話題を変えた。
「ねえ由紀子さん、私たちが親子二人きりでずっと暮らしてきたこと、そして今後のことが気になっているでしょうね?」
「いえ、そんなことは……」
「ごめんなさい、答えづらいことを聞いてしまって。でも、思っていることは何でも話していかれればと思うのよ。姑とか嫁とか、将来的にそんな立場になったとしても、いいお友だち、できれば歳の離れた姉妹みたいな関係になれたらいいなって」
「…………」
「私ったらお酒がまわってしまったのかしら、由紀子さんの立場では、はい、そうしましょう、とは言えないわよね。ただ、私がそう思っていることだけわかってもらえればいいのよ」
「お母さん、それじゃ、気になっていること聞いてもいいですか?」
「もちろんよ、どうぞ、何でも聞いてちょうだい」
「直樹さんがまだ幼い頃にお父さんを亡くされたそうですが、再婚というのは全く考えなかったのですか?」
「そうね、それは気になるかもしれないわね。
 五歳の直樹を遺して主人に先立たれた時は途方に暮れたわ。ひとりで直樹を育てていけるかしらって。おかげで、主人の死を悲しんでばかりはいられなかったのよね。喪失感が襲ってきたのは、暮らしの目途がたった頃だったわ。
 でもね、そんな私たちをずっと支えてくれた人がいたの。主人の親友でね、亡くなる前に、主人はその人に私たちのことを頼んでいったらしいの」
(もしかして、お母さんはその人と……)
「その人には家庭があったから、奥さまにもお世話になってしまったことになるんだけどね」
(なんだ違うのね。それならなぜ、その人の話なんかするのかしら?)
「でも、その奥さまが五年前に病気で亡くなられたの」
(え! じゃ、やっぱり……)
「今度は私が支えてあげる番がきたのよ」
(え? それだけ?)
「あとね、奥さまが亡くなられて、私ね、その方が好きだったと気づいたの。たぶん、ずっと前からその気持ちはあったと思うんだけど、主人が私たち親子を託した相手だし、その方には奥さまがいらしたから、心の奥にずっと封印していたんだと思うわ」
「それなら、これからその人とご一緒になるのですか?」
 やっと、由紀子は口に出して質問ができた。
「いいえ、今さらもうそんなことにはならないわ。もう二十年以上もお友だちでいたんですもの。これからもずっとこのままよ。
 ただね、私にはそういう心の支えになってくれる人がいるから、安心して直樹とのことだけを考えてねって言いたかったの」
 
 静かな寝息を立てて眠る美沙子の隣で、由紀子はなかなか寝付けなかった。体は疲れているというのに、枕が違うからだろうか? それとも、先ほどの美沙子の告白のせいだろうか? 美沙子は最後にこう言った。
「このことを誰かに話したのは初めてよ、相手の人にも伝えていないわ、由紀子さんだけ」
 由紀子は美沙子が後の姑候補ということをすっかり忘れ、ひとりの女性としてその生き方を考えていた。
(なんの障害もないのに好きな人と友だちのままでいて、それで本当に満足できるものかしら? お父さんが亡くなって二十五年、そのお父さんだって、親友となら幸せになってほしいと望んでいるような気がするけど)
 由紀子の中で、今夜の美沙子は歳の離れた姉になっていた。日常から離れた旅先の一夜のことであった。

作品名:暦 ―こよみ― 作家名:鏡湖