暦 ―こよみ―
卯月(四)不可解な提案
今日、由紀子は直樹に合わせて休みを取っていた。昼間はデート、夜にはふたりで兄、浩一と落ち合うことになっている。
この日は後の約束があるので、遠出することなく、山下公園で待ち合わせて港を眺めながらゆっくりと過ごすことにした。
昼前に訪れた公園は家族連れよりカップルが目立ち、自分たちもそうでありながら、仲睦まじい光景があちこちに見受けられると、なんだか気恥ずかしい気がする。
「お兄さんが僕に会いたいなんて言ってくれてうれしいな」
「何か失礼なことを言わなければいいんですけど……」
「僕は兄弟がいないから、ぜひ、仲良くさせてもらいたいと思っています。お兄さんて呼べる人ができるなんて本当にうれしいですから」
「そんな、私たちはまだ……」
「そうでしたね、何も決まったわけではありませんね。でも、お兄さんて呼んでもいいですよね? 真中さんて呼ぶのも、なんかよそよそしい感じですから」
「そうですね」
天気がいいので、陽射しは初夏を感じさせる。
「のど乾きませんか?」
そう言うと、直樹は自動販売機へ冷たい飲み物を買いに行った。
ひとりベンチに残された由紀子は、正面の海に浮かぶ何隻かの船をぼんやりと眺めていた。空には雲が浮かび、時間はゆったりと流れている。とても心地いい。そして、直樹と過ごすことにも慣れてきて、ようやくふたりでいても緊張することがなくなってきた。
でも、先ほどから見かける他のカップルたちのように、べたべたくっついたり、高らかに笑い合ったり、そんな恋人同士の甘い雰囲気が自分たちにはない。まるでつい最近、それも友人の紹介で知り合ったような距離感がある。そんな関係から抜け出せないのはどうしてだろう? 自然な形で出会い、互いに惹かれ合った理想的な出会いのはずなのに……。
「由紀子さん、お待たせ」
直樹から手渡されたアイスティーは、由紀子の喉を気持ちよく潤した。
「お兄さんてどんな人ですか?」
「外見は母似で、私には似ていません。性格は男にしてはおとなしい方かな、でも、ちょっと口は悪いですけどね。それを言ったら、早紀子の方がうわてかな」
「兄弟の中では由紀子さんがもっとも控えめってことですね」
それって、褒め言葉だろうか? 由紀子は、自分がつまらない人間だと言われているように感じた。自分たちが他のカップルと違うのは、私のせいかもしれない。
そして、思い出した、あの突然のキスのことを聞いてみるのは今かもしれない。でも、何と切り出していいかわからず、そわそわしていると、直樹の方から尋ねてきた。
「どうかしましたか?」
「いえ、あの……先日お宅に伺った帰りに、その……」
直樹はすぐに由紀子の言いたいことを察して、頭をかいた。
「あの時はすみませんでした。思いもよらず由紀子さんがわが家へ来てくれたのが本当にうれしくて、お酒も入っていましたし……。
でも、これからはあのようなフライングはなしにしますから安心してください」
「いえ、その……私は……」
「あの時の戸惑いかたで由紀子さんの気持ちはわかりました。ちっとも嬉しそうではありませんでしたから」
「…………」
「冗談ですよ。まだお付き合いを始めたばかりだというのに、僕の焦り過ぎだと反省しています。
ところで由紀子さん、連休は何か予定ありますか?」
「いいえ、特には」
「世の中十連休ということで盛り上がっているのに、僕はデパートの稼ぎ時ですからまとまった休みはもちろんとれません。普通のデートがやっとだと思います。交際相手としては失格かな」
「いいえ、そんな……」
「そういうこともあって、これまで彼女が出来なかったのかもしれませんね。埋め合わせを考えなければならないし、それに母のこともありますから」
なんで今そんなことを言うのだろう? 由紀子は少し不安になった。
「その母なんですけど、この連休に友だちと温泉に行く予定だったらしいんです。それが急に相手が行かれなくなってしまって。せっかくとれた予約をキャンセルするのはもったいないし、ひとりで行ってもつまらないみたいで。
どうでしょう、由紀子さん、付き合ってやってくれませんか?」
由紀子は目が点になった。私が? あのお母さんと温泉旅行?! どこをどうしたらそんな発想が生まれるのだろう?
姑と嫁が旅行に行くのさえ普通聞いたことがないのに、まだ婚約者でさえない私が、どうして相手の母親とふたりで旅行に行くことになるのだ? そもそも、旅行などというものは、かなり親しい間柄の人と行くものではないか! 直樹の母に会ったのは、たった一度だけだ。
さすがの由紀子も、怪訝な表情を隠すことができなかった。
「唐突な話で驚かせてしまいましたね。二、三日考えてみてくれませんか? それからでもキャンセルは間に合いますから」
由紀子の中ですっかりテンションが下がってしまった。これから二、三時間、この直樹とともに過ごし、その後兄に紹介しなければならない。できれば、このまま帰ってしまいたいという衝動が沸々と湧き上がってきた。それほど、直樹が持ち出した母親との旅行という申し出は、由紀子の心を暗く沈ませた。
しかし、機嫌を損ねたことをはっきり言えるような性格ではなく、また、これから会う兄に微妙な雰囲気が伝わることを怖れ、由紀子は今の話は聞かなかったことにして、この場をやり過ごす選択をした。
それなりにデートの時間を過ごし、兄と合流する時がやって来た。落ち着いた雰囲気の居酒屋でふたりは対面し、酒を酌み交わした。
傍らでその様子を見守る由紀子などそっちのけで、ふたりは盛り上がり、すっかり意気投合している。
「うれしいなあ、私には妹しかいないので、こうやって酒を飲める相手が欲しかったんですよ」
「僕もですよ、お兄さん。僕なんか兄弟はいないし、父も早くに亡くしていますからね」
「お兄さんか……いいもんだなあ、同性にそんな風に呼ばれるのは初めてだよ」
「お兄さん、これからは何度でも呼ばせてもらいますよ」
上機嫌のふたりを見て、由紀子は複雑な気持ちだった。浩一がうれしいのは本当だろう。でも、果たして直樹はそうだろうか? 私の手前、あるいはこれからの自分の立場を考え、浩一に合わせているだけなのではないか?
それとも、私も同じように、直樹の母と温泉に行くように、と直樹が自らの行動で無言の圧力を加えている……そう思うのは考え過ぎというものだろうか?
そんな由紀子の思惑をよそに、浩一と直樹の語らいとともにその夜は更けていった。