暦 ―こよみ―
卯月(二)葬儀にて
慌ただしい一週間だった。
父和孝の姉、節子の姑が他界し、横浜で通夜、葬儀が営まれた。その両方に、由紀子は両親と兄浩一、妹早紀子とともに参列した。兄嫁の多恵は身重のため欠席し、世田谷の政興はひとりで通夜にだけ顔を出した。
冠婚葬祭、中でも葬儀というものは、縁はあってもふだん顔を合わせることのない人たちが集う不思議な空間でもある。故人との別れの場でありながら、一方で、疎遠な親族たちの一時的な交流の場でもあるのだ。
妻とともに母の介護に専念すべく、先月で会社を早期退職した途端、その母は逝ってしまった。落胆する重雄に、息子に世話をかけたくなかったんだよ、などと、取りようによっては残酷な慰め方をする会葬者もいた。大切な人を失った人にかける言葉は難しい。中には、八十を過ぎればおめでたいさ、などと、言う人までいた。
たしかに一昔前はよく耳にした言葉だが、長寿社会の現在、いったい幾つまで生きたら寿命をまっとうしたと言えるのだろう? 百歳あたりだろうか? 少なくとも八十は今や平均寿命であり、長生きの領域にはとても入らないだろう。
身内の葬儀に直面してみると、人はあっけなく死んでしまうものだと実感する。由紀子の脳裏に、今年の一月、久しぶりに会った金沢の祖父母の笑顔が浮かんだ。人の寿命なんてわからない。まして高齢の二人だ。そのうちと思っていたが、なるべく早く会いに行こう。あの時が最期だなんてことにならないように。
後日、落ち着いた頃を見計らい、和孝夫婦は娘二人とともに、改めて線香をあげに横浜へ向かった。中でも早紀子はしばらくの間、手伝いに通っていたので、節子夫婦はその来訪を心から喜んだ。
和室に通され、祀られているお骨の前で順に線香をあげ、合掌。正面には笑顔で微笑む故人の写真が元気な頃を偲ばせている。四十九日の納骨がすむまでは、ここで息子夫婦と別れを惜しむことになる。
そして、しばし思い出話に花が咲いた。
「お義母さんは本当にやさしくてね、私たちの時代はまだ嫁に厳しい姑が当たり前だったけど、私は嫁の苦労というものを知らなかったわ。同居のつもりでこの家に入ったのに、お義母さんたちは離れを建てて移ってくれてね。本当によくしてもらったの。
それなのに孫の顔を見せてあげられなかったのよね。決して口には出さなかったけれど、楽しみにしてくれていたと思うわ。それだけが申し訳なくてね。
離れに移ったのだって、きっと孫たちとゆったりと暮らせるようにと配慮してくれたのだと思うのよ」
そう言うと、節子はそっと目頭を押さえた。
「今さらそんな昔話をしたって仕方ないさ」
「あら、あなた、こういう席でしか言えないことでしょ?
私、本当にいいお義母さんのところへ来られて幸せだったと思っているのよ」
「なんだか、俺は二の次と言われているようにも聞こえるがな」
重雄の言葉に、保子が口を挟んだ。
「お義兄さん、嫁に来る者にとって、どんなお義母さんかというのは本当に大事なことだと思いますよ。長男のところに嫁ぐというのはそれなりの覚悟がいる時代でしたからね」
「お前は俺が次男で気楽に来られたというわけだ」
今度は和孝が口を出した。
「そうですとも、お義兄さんに感謝してくださいね」
「兄貴か……」
和やかだった空気が少し変わった。誰もがそれを肌で感じ取った。
長男の政興は、子どもの頃から両親の期待通りに育った。
優秀な成績で弁護士となり、人柄の良さもあって今の妻の父、鵜原源次郎に見込まれた。そして、公私にわたり可愛がられ、娘の夫として婿同然の形で迎えられるまでになった。両親からすれば皮肉な結果かもしれない、自慢の息子であったがゆえに、他人の目に止まり、家族から遠ざかる要因になってしまったのだから。
源次郎には香津子の下に息子の正志がいたので、婿養子にという話にはならなかった。もっとも、政興だって真中家の長男であるから、どちらにしてもそれはあり得ない話なのではあったが。
しかしその後、源次郎の経営する弁護士事務所では、政興がその手腕を大いに発揮し、周囲から厚い信頼を得るようになっていった。それでも政興は、義理の弟を立て、一歩退くことを常に心がけていたので、事務所は円滑に運営されていた。
一方、そんな政興とは対照的に、香津子は真中家を気遣うどころか、口にこそ出さないが、その態度で家の格の違いをことあるごとに見せつけた。当然、長男の嫁としての振舞いなど全くない。籍を入れ、名前こそ真中姓に変わったが、事実上は政興を婿養子のように扱っているのが誰の目にもわかった。
それでも金沢の両親や政興は、穏やかで控えめな性格だったので、これまで目立った波風が立つことはなかった。しかし、兄弟である和孝や節子は、そんな兄嫁を快く思うはずもなく、それゆえ自然と兄とも疎遠になっていった。
「兄さんと会うのは久しぶりだったわ」
節子が言うと、
「そうだな、兄弟なんて大きくなればそんなものさ。そのために冠婚葬祭があるんだろうな。葬式だけは親族ならば顔を出すものだからな」
和孝がそう答えた。
「兄さん、ずいぶんと風格が出て、ちょっと感じが変わったわね」
「歳をとったのさ」
「子どもの頃はやさしくて頭が良くて、自慢の兄さんだったのにね。私、友だちからよく羨ましがられたものよ」
「へえ、そうだったのか。俺は逆に兄貴と比べられて困ったけどな」
「あら、和ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんっていつもくっついて歩いてたくせに」
「そうだったかな」
「そうよ。でも、結婚してからは何もかもが変わってしまった気がするわ。私、いまだに香津子さんをお義姉さんとは呼べないのよね……親しみは湧かないし、はっきり言って苦手なの。それに香津子さんとさえ結婚しなければ、兄さんとはもっと行き来があったと思うし……」
「そんなお前――」
重雄が節子に何か言いかけた時、それまで珍しく黙って話を聞いていた早紀子が口を開いた。
「伯母さん、うちのお父さんで我慢してよ。私というおまけもついていることだし」
「なんですか、大人の話に割り込んだりして」
すかさず保子が娘をたしなめたが、節子は早紀子を見てニコッと笑った。
「そうね、早紀ちゃんの言う通り、和ちゃんで我慢するわ」
「ひどいな、姉さん。それに早紀子もなんだ、父親で我慢しろとは!」
口ではそう言ったが、和孝は内心ホッとしていた。姉の言ったことは自分もずっと思っていたことである。兄嫁があの香津子でなければ、普段から兄と酒を酌み交わし、いろいろと相談に乗ってもらうこともあっただろう。それが今は、たまに電話で近況を報告し合うくらいになってしまった。
だとしても、姉のように香津子とさえ結婚しなければ、とは口にはできない。それは言うべきことではないと思っている。そんな重い空気を、早紀子が変えてくれたのだ。
その傍らで、由紀子もまた、伯母の言葉を深く受け止めていた。結婚相手によって、それまでの家族との関わりがまるで変わってしまうこともある、それを目当たりにしたのだから。