Deep gash
一
「よう考えたら、変な組み合わせやわな」
屋号である『和音』の看板。下の方に丸ゴシック体で書かれた『ちゃんこ・グラタン』の文字。五年通っている丸川が、体の形に変形したようなカウンターに上半身を預けたまま、今初めて気づいたように言った。カウンターの後ろで野菜炒めを作っている横井祐介は、少し恥ずかしそうに俯きながら笑った。
「自分、子供のころはグラタンしか食べられへんかったんです」
「あーそうなんか。親父さんが好きなんか思ってたわ」
丸川は、折り重なった自身の腕の上でかろうじて自由になっている手首を浮かせると、器用にぽんと相槌を打った。横井はまな板の横に置かれた時計に、一瞬視線を落とした。夜の十一時。あと三十分でラストオーダー、知り合いが来なければ日付が変わるのと同時に店じまい。
「いっこの味やったらすぐ飽きるからゆうて、お店で出して色んなバリエーションを作ってくれたんです」
横井が言うと、丸川の隣にいる連れの女が少し眉を曲げて、悲しそうな顔をした。丸川が笑った。
「普通に生きとるで。今日は息子さんがやっとるけど」
「そうなんや。ええ話やね」
「そうかマユナ、ここ来るん初めてか。ええ店やろ」
丸川が笑いながらマユナの肩を揺すり、ほとんど空っぽになった徳利がひっくり返った。横井がおしぼりを差し出すと、丸川は両手を合わせて肩をすくめながら言った。
「ごめんごめん、いやあ飲みすぎとるわ」
マユナが笑った。
「ほんま、年々弱なってからに。息子さん、年はおいくつなん?」
「二十三です」
「しっかりして見えるね」
返事の代わりに笑顔で小さく礼をした横井は思った。それは多分、単に老けているだけだ。苦労をした人間は老けるのが早いと思われがちだが、実は人間は全く苦労をしなくても老ける。自分がいい例で、こうやって親父の居酒屋を手伝っている以外は、ずっとギターを抱えてスタジオに入り浸っている。実質無職だ。
「ギター上手いねんで」
丸川が、横井の頭の中を見透かしたように言った。今は外しているが、リストバンドにはメタリカのロゴが入っている。
「マモさんもおったら、歌ってくれるやろにな」
「今日は親父と二人で野暮用なんすよ。でもね〜、マモさんはメタリカ歌ってくれないんで」
横井は苦笑いを浮かべて言った。『マモさん』は親父の弟で、本名は衛。元相撲取りで、ちゃんこのレシピは、ほとんどマモさんが考案した。野菜炒めと白ご飯を出すと、香ばしい匂いで少し酔いが醒めたように、丸川は食べ始めた。シメには例外なくこの組み合わせで、食べながら寝るか、完全に食べ終わってから寝るかの二択しかない。丸川が野菜とご飯を交互にかき込む間、店が静かになり、がらんとしたテーブル席を眺めていた横井は、携帯電話に弟の荘介からメールが来ていることに気づいた。
『店どうなん』
そっけのない文章。荘介はいつもそうだ。横井はその様子を思い浮かべた。メールを打っているときの表情すら、頭にうかべることができる。
『十二時に閉めるわ』
マユナから見えないように素早く返事をすると、待ち構えていたようにメールが届いた。
『杏奈が寝られへんて』
杏奈は十一歳、荘介は十九歳。両方、もうちょっとしっかりしてもいい年だと、横井は事あるごとに思っていた。横井家には母親がいない。祐介が十五歳のときに、それまでいなかったようにふっと消えた。不肖の兄しか頼る相手がいないのかもしれないが、それでも十一歳にもなって夜寝られない上に、それを十九歳が寝かしつけることもできないとは。
『学校は?』
『コーヒー飲みよって、目かたいねん』
無視して、しばらくマユナと世間話をしていると、野菜炒めのニラをよける作業の途中で、丸川がゆらりと揺れた。横井は慌てて会話を中断した。
「おっと、丸川さん危ない」
「おー、寝るとこや。ヤバイな。いこか。釣りいいで、ごちそさんね」
丸川は一万円をカウンターに置くと、自分より背の高いマユナにしがみつくように店から出て、ネオン街の方向へ歩いていった。横井は店の外に一度出ると、人影がなくなったことを確認してから、看板を店の中へ片付けた。少し早いが、今から新しい客を入れる気にはなれない。
「おっさん二ラ嫌いやな」
常連なんだから、初めから入れなければいい。そう親父に言ったことがあった。返ってきたのは、鍋を振りながらのひと言。『それは野菜炒めとは言わん』
荘介にメールを送る。
『杏奈どないなった? 今日カテキョ来てたから、疲れとるんちゃうん?』
返信はやや長かった。
『寝られへん言いながら寝よった』
杏奈の成績をさらに引き上げるために、家庭教師が週に二回やってくる。野市美知子という名前の物腰が柔らかい大学生で、杏奈とは友達同士のように気が合うらしく、いつも笑い声が聞こえてくる。部屋で勉強をしているのかはっきりしない。しかし、野市の『教育』のおかげで私立が視野に入ったのは事実だ。そして、杏奈は寝た。荘介は起きているが、しばらくしたら同じように寝るだろう。あとは親父に連絡するだけ。横井は親父にメールを送った。
『ぼちぼち閉めます』
数分間静まり返った店の中で、考える。母がいなくなったとき、杏奈は三歳だった。当時十五歳だった自分や、十一歳だった荘介とは、受け止め方が違っただろう。もしかしたら、何も受け止めなかったかも。三歳なら母の記憶はほとんどないだろうから、初めからいなかったようなものだ。それでも野市に懐くのは、自身でも知らないはずの母親像みたいなものが、野市の話し方や立ち振る舞いにあるのだろうか。横井の考えを中断するように、携帯電話が光った。
『おつきれ』
「四文字で間違うか」
横井は笑いながら、洗い物にとりかかった。
「おい、これどないして取り消すんじゃ」
順が言った。衛は肩で息をしながら答えた。
「もう送ってもとるやんけ。遅いわ」
横井順は四十七歳。身長百八十三センチに体重八十五キロの大柄な体型。浅黒い肌も相まって、若いころから威圧感があった。左眉を縦にまたぐように傷跡があり、炎の上で二十年以上鍋を振り続けた左手の甲は、蝋を纏ったように固く光っている。
横で息を切らせている衛は三歳年下の四十四歳、相撲部屋の出身で、現役時代の恰幅はないにしても大柄な順よりも全ての部品がひと回り大きく、三十代はちゃんこ専門店のオーナーとして、店を切り盛りしていた。五年前に自身の店を閉め、現在は『和音』のカウンターの後ろにいる。
「四文字でよう間違うたな」
衛はそう言うと、両手で男の体を土嚢のように持ち上げ、コンクリートの壁へ向かって投げつけた。ぶつかる音にも倒れ方にも、もはや人間性は感じられない。傍らには、さっきまでこの男を庇っていた女が後ろ手に両手を括られてうずくまっているが、自分の知り合いが土嚢となっている現状はとうの昔に受け入れたようだった。衛はため息をついた。もう二時間が経っている。
順は、二人の免許証を代わる代わる見ながら呟いた。
「森下くん、長戸さん、どっちゃでもええわ。ええ加減、教えてくれや。あかんか?」