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短編集43(過去作品)

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閃光とオーロラ



                 閃光とオーロラ


 確かに断崖絶壁の上にいた。
 震えているように感じるが、意外としっかりしている足、遠くを見ていないと恐ろしくなるほどで、断崖に打ち付ける波の音がはるか足元で響いている。
 どれだけ高いのか想像もつかないが、強い風に煽られながらどうして自分がそこにいるのかを考えていた。
――自殺?
 理由が思い浮かばない。自殺をしようという理由もさることながら、自殺するだけの勇気もない男がそこまで思いつめてしまうこと自体が不思議であった。
 しかし、自殺と決め込んでいいものだろうか? 自分がなぜそこにいるのか分からないのは、目の前に広がる恐ろしい光景を見て、一瞬にして自分の考えていたことが吹っ飛んでしまったからに他ならない。どうしてそこにいるのかを考える前に、何とかそこから逃れたいと思う気持ちの方が強いはずなのに、足がすくんで動かない。
――以前にも同じような思いをしたことがあったはずだ――
 身体の節々に痛みが走る。縄で縛られているような拘束感を覚えた。手足の自由もきかず、身動きをとることができない。できるのは目を動かすことだけで、一生懸命にまわりを見ようとしていた。首を動かすことは縛られているためできない。必死で目を動かしていると、次第に目が痛くなって、瞼が重たくなってくる。
 睡魔とは違った意味で瞼が開かなくなってきた。身体が痙攣しているようで、まな板の上にいる魚をさばこうとした時のように激しく飛び跳ねようとしていた。そのたびに身体に縄が食い込んでくる。全身に更なる拘束感が走る。断崖の上にいると、頭は拘束された痛みを思い出していた。
――もうだめだ――
 何度かそう感じたように思う。そのたびに一歩ずつ足が前へと進んでいて、今にも落ちそうな状況に陥っているからだ。最初は、一歩でも動けば奈落の底だと思っていたのに、どうして落ちないのだろう。極限状態に陥っていながら、不思議な気持ちで思わず苦笑いをしてしまったほどだ。
 鼠色の空は、海をも同じ色に染めようとしている。空と海の境目が分からず、厚い雲に覆われているはずなのに、雲かどうかも分からない。
 海面を見ていると、小刻みに押し寄せる波が光っている。大きな波ではないが、岸壁に近づくにつれて大きく、そして強さを増してくるのだ。岩が砕けんばかりに打ち付ける波の強さはかつて見たことのないほどだった。
――まてよ――
 ちょっとした矛盾を感じた。
 岸壁の上から身動きも取れず、遠くにあるはずの見分けのつかない水平線を見ているはずなのに、どうして足元からはるか下にある断崖に打ち付ける波を確認することができるのだろう。あくまでも想像でしかないはずのものが、あたかも実際に見ているような錯覚を感じるのは不思議だった。
 想像力というのがいかに果てしないものかということを思い知った。見てもいないものがまるで本当に見えているかのように思える。音だけは本物として感じているが、それ以外は完全に想像である。実際と寸分狂わぬ想像である。実際に生で見た方が疑わしいのではないかと思えるほど強烈なことほど、想像が真実だと思える。まさしくその時の想像は、空想の域を超えていたに違いない。
 今度は足元を見てみた。先ほど断崖の最先端にいるように思っていたのに、まだまだ余裕がある。まだ数歩前に進んでも落ちることのないほどの余裕である。このまま横になっても、身体がはみ出すことのない距離感には、ホッとした気分にさせられる。
 一度足元を見てしまうと、今度は前を見ることができなくなった。距離感の一番遠くは断崖の先端である。さっきまで果てしない遠くを見ていたはずなのだが、それ自体が、ウソのように思えてくる。それだけ水平線は曖昧な距離なのだ。
――晴れていたって同じじゃないか――
 見えているつもりの水平線でも、その距離感を掴むことなど不可能だ。普段であれば分かっているはずなのに、ここまで暗く、そして曖昧だと感覚が違ってくるのだ。
――まるで吸い込まれていくようだ――
 最初に感じたのは、どす黒さであった。それが次第にグレーへと変わり、曖昧さを浮き彫りにしてくる。グレーという言葉、曖昧なものを表現するのに使われる言葉である。グレーという言葉自体が曖昧なものだと感じ、苦笑いをしていた頃が懐かしい。
 あれは中学時代だっただろう。何事も疑ってみることの多かった世代、少年時代の純な気持ちの中に、少しずつ矛盾を感じるようになっていた。それが中学時代だった。中学時代から少年時代を思い起こした時は、少年時代の方が矛盾を感じていたように思っていたが、それを考えるのが罪だと思っていた。何が罪なのか分からないが、精神的に一番不安定だったのが、中学時代だったに違いない。
 どす黒さにも目が慣れてきた。グレーの部分と、黒い部分との見分けが少しずつだができてきた。
 真っ黒さが下半分を、グレー色が上半分を支配している。グレー部分に光を感じてくる。厚い雲が幾層にも連なっている。グレーな色はどこまで行ってもグレー、決して黒く染まることのないことを教えてくれた。
 風の強さはどんなに厚くとも関係なく、重々しくも雲を押しのけていく。いくつもの白い糸を引いているように見えるのは、まさしく風ではないか。風が肉眼で見えるわけがないと思っているはずなのに、では目の前に繰り広げられている白い糸をどう説明すればいいというのだろう。
 遠くの方で音が聞こえるのが早いか、小さな閃光が上がった。稲光のように見えたが、雷であれば、音よりも光の方が先のはずである。そのことに気付くほどその時は冷静だった。自分で後から考えて恐ろしくなるほどに冷静だったのだ。
 真っ暗な中での閃光は、小さいとはいえ、安心感を与えてくれた。閃光を感じるたびに背中に汗を感じ、閃光の起こったあたりから目が離せなくなっていた。
 次第に音が近づいてくるように感じた。
――音は大きくなっているのではない。近づいているんだ――
 と、確信めいたものを感じたのは、音がこだましていなかったからである。音がしてすぐに稲光が見えた。先ほどよりも間隔は明らかに短い。
 初めて恐ろしさを感じた。
――稲妻が自分の上に落ちるんじゃないか――
 という言い知れぬ不安に駆られたからである。目を瞑れば雷が見える。ハッキリとしたギザギザが見えるのだ。今までは稲妻にギザギザがついているなど信じられないと思っていたのに見えるのだ。夢であろうはずはない。思い切り瞼に力を入れて目を閉じる。閉じた瞬間、まるで反動でもあるかのように目を思い切り開けると、海の色までがグレーに変わっていた。
――稲妻が海の色まで変えてしまったのだろうか――
 不思議な感覚に襲われ、海を見続けていたが、どれくらいの時間が経ったのだろう?
 まるで生命の進化にでも立ち会っているかのような不思議な感覚に襲われた。聖書の世界を目の当たりにしている気分である。
 雲が恐ろしい勢いで動き始めた。白い糸がさらにたくさん現れ、目の前の海は完全に荒れ果てている。
――逃げなくては――
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次