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英雄譚の傍らで

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5.三十年目:書簡



 ……記憶があやふやになってきています。
 もう、三十年の年月が経ってしまいました。洞穴の土壁に刻み続けた印の数を間違えて居なければ、の話ですが。
 どうも最近、能力が衰えてきていると感じます。記憶力はもちろんのこと、身体能力や視力、聴力に至るまで。これが老化というものでしょうか。三十年という月日が事実ならば、年齢的にやってきてもおかしくないのですが……。
 とはいうものの、身体能力の低下はそれほど私に深刻な影響を与えませんでした。食料調達で行う狩りには多少支障が出ましたが、釣りの方にはそれほど影響が出なかったので、得られる食料は以前と大差なかったからです。
 大きな問題が出たのは視力の衰えでした。焚き火の炎を明かりにしているとはいえ、石を削る作業は基本的に暗い洞穴の中で行います。しかし、視力の衰えによって、作業を長時間続けることが難しくなってしまったのです。どうしても限界は3、4時間。そこから休憩を1時間ほど挟まなければ作業を再開できません。墓石の完成が近づいてきている今の状況で、この躓きは大きな痛手です。老化が始まっているということは、私の命のともし火もあと僅かだということを意味します。せめて自身の命数が尽きるまでにはステラの墓を完成させなければ……。
 それ以上に由々しき問題があります。ステラの記憶。私の頭の中のステラの記憶が、三十年の月日で徐々に薄らいで、もうあやふやになってきているのです。あの帽子もローブも笑顔も、もう朧げにしか思い出せません。この事実に気づいた時、私は愕然としました。私の頭の中のステラの記憶が消え去ってしまったら、この世でステラを覚えている人間は誰もいなくなってしまうかもしれないのです。私は、ステラのことを懇ろに弔い、永遠に人々の記憶に刻み付けたくて墓を建てているのです。その私がステラのことを忘れてしまったら、人々の記憶に残すことなどできるわけがなくなってしまいます。私は動揺し、落として散らばった記憶の欠片たちを拾い集めるように、ステラの記憶を元に戻せないだろうかと夢想しました。しかし、そんな幻想めいた想いは、焚き火の小枝が燃えるパチパチという音と共に掻き消えていくだけなのです。

 そんな焦燥の日々を送り続ける私に、ある日一人の郵便屋が訪ねてきました。
「草原に住む男性に、これを渡してくれと城から指示がありました」
朴訥そうな郵便屋は、予め言い含められていたのであろう科白を機械的に私に告げると、一通の手紙を渡して、そそくさとまた洞穴を出て行きます。
 私は困惑していました。この洞穴で生活して三十年、手紙など一切来たことはありません。そもそも私に手紙を寄越してまで用事がある人間などいるはずがないのです。いっそ焚き火に放り込んで焼き捨ててしまおうかとも思いましたが、そのような無下な事もできません。私は仕方なく、厄介ごとに巻き込まれなければいいがという思いと共に、手紙の封を切りました。

 手紙の送り主は、かつて共に冒険した勇者、今は政界にいるアルクスからでした。


  長い間、貴公に連絡を取らなかったことを申し訳なく思っている。
  だが、かつて悲劇の起きた草原で、貴公が弔いを続けていてくれた事。
  それは、私の耳にも届いているし、多大な感謝をしている。

  我々は、意見の相違もありかつて袂を分かった間柄だ。
  だが、お互い功成り遂げた今なら、きっと分かり合えることもあるだろう。

  私は現在、政治家の職務に就き、次代の王とも目される存在となっている。
  ひいては、一度王城にいる私の元を訪れて欲しい。
  旧交を温めた後には、私も墓前に手を合わせることを考えたいと思う。

  それでは、良い返事を待っている。


  アルクス


 一読した直後に私の心を支配したのは、またしても怒りの感情でした。
 一体、彼は何様のつもりなのでしょうか。大魔王を倒し、今は政治の世界で辣腕を振るっているのかもしれませんが、だからといって、この文面から滲み出る傲慢さはいかがなものでしょう。
 それだけではありません。私の名はおろか、ステラの名すらもこの手紙には書かれていないではありませんか。確かに私ももう、ステラの記憶はあやふやです。ですが、この男が、去り際に『平和になってからステラのことを考えよう』と言ってのけたこの男が、ステラの名を記さないとは何事ですか!
 墓の前に手を合わせることを考えたい? 考える必要などありはしません。今すぐにでも手を合わせに来て、遅くなったことをステラに詫びるべきです。
 それに、貴方は確かに功成り遂げたかもしれない。しかし、私はまだ道半ばだ。ステラの墓を然るべき形にし、ステラがいたことをこの世に刻み付けることが私の功なのです。勝手に人の仕事を終わらせないでいただきたい。
 どちらにしてもアルクスの思惑はわかっています。王位に就くにあたって、瑕疵になりそうな過去を今、逐一清算しているのです。冒険で命を落としたかつての仲間の墓を参っていないことで、王座の争いから追い落とされるのかまでは知りませんが、それぐらい後継争いというものは厳しいものなのでしょう。いやそれどころか、より自分の立場を王座に近づけるための巧妙なパフォーマンスである可能性だってありえるのです。
 全く持って気に入りません。こんな要求など飲めるはずがありません。それに、私はステラの墓から離れる気は毛頭ないのです。会いたければそちらが来るべきです。そうすれば墓の前に手を合わせることだってすぐできるのですから。
 そのように書き記して返事を送り返そうかと一度は考えました。しかし、このような返事をしたらしたで、それこそ相手の思う壺なのではないでしょうか。YESでもNOでも、どちらにしてもアルクスとその側近は対応を考えついているはずです。どうせなら、彼らの意表をつくような行動はできないものでしょうか。私は、数日間考え込みました。
 その数日間の熟慮の結果、私は王城を訪問してアルクスに会うことに決め、その旨の返信を送りました。それから、王城へ行く日までに三つの物事を行っておいたのです。一つは、長年削り続けてきたステラの墓石、その削石の最後の作業である自作の碑文を掘り終え、今まで置いてあった石と取替えて、ステラの墓標を完成させておくこと。もう一つ、三十年ものあいだ洞穴の隅で埃を被っていた魔導書を開き、『自身の生命』を犠牲にし『神の力』によって『周囲の敵』を討ち滅ぼす魔法をすぐさま唱えられるよう確認しておくこと。そして最後に、私の人生を悔いなきように、いつ終わっても良いように、心の準備をしておくこと。

 ……そして、王城に訪問する日がやってきたのです。


作品名:英雄譚の傍らで 作家名:六色塔