英雄譚の傍らで
序.序章にして、終章にして、途上
どこまでも透けて見えそうな、雲一つ無い青い空。
シロツメクサが咲き誇る、広大無辺な美しい野原。
暑くもなく寒くもない、心地のいい麗らかな陽気。
飛び回る小鳥も、ご機嫌にさえずりを奏でている。
そこに待ち受けるは、赤銅色の鱗を持つドラゴン。
『悪魔族による世界の支配を目論む大魔王を討伐せよ』という王の命令によって、今私の目の前で剣を構えている勇者アルクスが冒険を始めたのは、ちょうど半年前のこと。その旅立ちの日の夜、たくさんの人でごった返す城下町の酒場で、旅の仲間を探し求めていた彼と意気投合したのが、駆け出しの聖職者である私と、今私の後ろで杖を折れんばかりに握り締め魔法を詠唱している女魔法使いステラの二人でした。
私達三人はパーティを組んでから半年の間、城下町の付近で手頃なモンスターを狩り続け、腕を磨き続けました。また、自身の鍛錬だけでなく、装備をより良い物に買い換えたり、お互いの癖などを確かめ合ったり、戦闘時の作戦を立てたり、他の冒険者や城下町の人々と情報交換をしたりといったことも怠る事はしませんでした。
そして、今。
やっとのことで顔を覚えてもらった酒場のマスターから仕事を斡旋してもらい、私達は城下町からやや離れた、ドラゴンが住み着くという草原へと足を運びました。ドラゴンなんて初心者が相手にしてはいけないモンスターだと思われるかもしれませんが、この草原に居ついているドラゴンは下級種で比較的おとなしい種族だ、と事前に酒場のマスターから私たちは情報を得ていました。つまり、駆け出しの冒険者が腕試しに戦うには恰好の相手、というわけです。
私達は、城下町の平和と、半年間鍛え上げた成果の確認と、冒険者としての名声を得てこれからの足がかりにする事、この三つの目標を達成すべく、草原でドラゴンに戦いを挑んだのです。
草原にたどり着くと、標的のドラゴンはあっさりと見つかりました。すかさず、速さに長けた勇者がドラゴンの不意をつき一撃をくわえます。ドラゴンが怯んだ隙に私がパーティの防御力を上げる魔法を唱え、ステラは勇者の物理攻撃力を高める魔法をかけていきます。これ以降、勇者は物理攻撃に専念、私は回復を優先しつつ余裕があれば攻撃を、ステラはありったけの魔法をドラゴンに浴びせかけます。シンプルではありますが、各々の得意分野を生かした堅実な作戦でした。
こうしてしばらくの間戦闘を続けているうちに、目に見えてドラゴンは弱りだしました。咆哮に力が無くなり、動きも鈍重になり始め、翼の動きもそのはためきから来る突風もすっかり弱まり、もたげる頭も最初より心持ち低くなっています。これはそろそろ音を上げる頃だろうという考えが脳裏を過ぎっていました。
その刹那、私たちの間に生まれていた油断。
創痍のドラゴンはこの一瞬の油断を見逃しませんでした。瀕死の怪物は、せめてもの一矢を報いるべく、振り絞った断末魔のそれに近い鳴き声と共に口から巨大な火球を吐き出します。数千度に達するであろう緋色の劫火。それが息をもつかせぬ速度で私達の元に飛来し、勇者と私の頭上を通り過ぎたのです。
「……!」
私がハッと思い後ろを振り向いたとき、呆然とした表情で迫り来る劫火を見つめるステラの姿がありました。そして、ゆっくりと、残酷なほどにゆっくりと、ステラは劫火に包み込まれていきます。トレードマークのとんがり帽子も、だぼだぼのローブも、握り締めていた杖も、周囲に咲き乱れていたシロツメクサもろとも、全てが次の瞬間跡形もなく消え失せてしまっていました。
「…………」
私は、たった今起きた現実を受け入れることができませんでした。あのステラが死んでこの世から失われてしまうなんて……。そんなことが真実であってはならないという気持ちが心を支配していました。
頭と心が完全に動きを止めてしまい、私は絶句するしかありませんでした。そう、言葉なんて一切出ないのです。こんな時、ステラの名を思わず絶叫してしまったり、そうでなくとも何か声にならない叫びをあげたりするものだと私も漠然と思っていました。でも、発声なんかできやしないのです。ただただ、力なくその場にへたり込み、それからやっと涙が自身の頬を伝っているのを理解したのです。
「おい。倒したぞ」
ややあって、ドラゴンにとどめを刺したアルクスが、こちらに来て声をかけます。
「あのドラゴンはおそらく下級種じゃあないな。ありゃ上級種の子供だ。じゃなきゃ、あんな炎吐けやしねーよ」
私は、のうのうと分析を始める勇者が信じられませんでした。そんな科白は今、聞きたくはありません。それよりもなぜ、仲間の死に平然としていられるのでしょう? 私は涙で濡れた顔を上げ、勇者を力なく見上げました。
「酒場の親父に文句言うついでに、替わりの魔法使い探さないとな」
次に聞こえてきた勇者のこの言葉、私にはこれがどうしても聞き捨てなりませんでした。ついさっきまで一緒に戦っていた仲間じゃありませんか。『死んじゃったから、はい次の人』なんて、なぜそんな薄情なことができるのでしょう。私は、ふらふらと立ち上がって勇者に向き直りました。
「私は……、私は、ステラを弔うためにここに残ります」
嗚咽混じりの声で何とかこれだけ伝えました。ですが、勇者の反応は冷ややかでした。
「お前、マジで言ってんの?」
深く頷きます。その間も涙は止まる気配もなく頬を流れ続けます。私は、みっともないくらいの泣き声で、逆に勇者に問い質しました。
「アルクス。あなたこそ、彼女の弔いをする気はないというのですか?」
勇者は完全に呆れ返っていました。
「まずは、大魔王を倒すことが何よりの弔いだろ。ステラの事はさ、世界が平和になってから考えようや。今はそれが、正しい順序なんじゃねえの?」
きっと、勇者の論理ではそれが正しいのでしょう。しかし、どうしてもそれに同意できなかった私は、首を左右に振って否定の意を告げました。それを見て勇者はひとしきり考え込み、さらに言葉を継ぎ足します。
「もちろんさ、俺だって悲しくないわけじゃない。でも、このままだと、もっとたくさんの人々が犠牲になってしまうだろう? それを一刻も早く食い止めるには、お前の力が必要なんだよ。な、ここに残るなんて言わないで、力を貸してくれよ」
この言葉も、真理を突いているかもしれません。ですが、それはステラの弔いを先延ばしにする免罪符にはならないのです。私は、沈痛な面持ちで再び首を左右に振りました。
「ふーん。じゃ、もう好きにしろ」
こうして、私は冒険者を止めて別の人生を新たに歩き出し、ステラはその短い一生を終え、勇者は途上の冒険を再開することとなったのでした。