【短編集】人魚の島
剣を鞘に収めて荷物を拾いあげ、地面に転がってうめき続けている男たちを慎重にまたぎ越す。
傷がズキズキと痛んだ。足を踏みだすたびに左の脇腹がうずく。それでも懸命に走った。
右腕の傷口から血がふきだし、肘を伝って下にしたたり落ちる。腰着が太腿の血を吸って肌にはりついた。後ろを振り返る。地面に点々と血痕が続いていた。格好の目印だ。どこへ逃げたのかがまるわかりだったが、わざわざ消しているヒマはない。
倉庫街の路地を抜け、波止場に戻る。ホッとしたのもつかの間、背後から声が追ってきた。振り向くと、路地から剣を持った三人の男たちが飛びだしてきた。もう回復したらしい。やたらとタフな連中だ。
ティアナが鋭く息を飲む。ダンは急いで周囲を見回し、
「あっちだ!」
と、指さす。
一番近い桟橋からいましも出港しようとしている船があった。桟橋から船体が徐々に離れていく。
「あの船に乗るんだ、早く!」
「はい!」
走った。力の限り。肺が焦げるまで。
右の太腿に痛みが走り、足がもつれる。転びそうになった。ティアナがすかさず手を伸ばしてダンの身体を支え、助け起こす。
男たちが叫びながら追ってくる。距離が縮まっていた。
全身をさいなむ痛みを無視して、ひたすら手足を前後に動かす。ティアナがついてくる。というより、彼女のほうがダンよりも走るのが速い。足に傷を負ったダンは、歩くよりもかろうじて速いぐらいだ。
船が桟橋からどんどん離れていく。最後の数秒は死に物狂いだった。
「飛ぶんだ!」
ティアナの手をしっかりとにぎり、ふたりでいっしょに桟橋の角を蹴って、船と桟橋のあいだの海を飛び越える。
身体が浮く。腕を伸ばし、船腹に垂れ下がった縄梯子をつかんだ。
勢いを殺せない。船腹にイヤというほど強くぶちあたる。衝撃。激痛。一瞬、意識が遠のく。
ティアナの悲鳴。縄梯子をうまくつかめず、海に落ちそうになった彼女の左腕をとっさに右手でつかむ。右腕の傷口がよじれた。激しい痛みに目がくらむ。腕の傷口からあふれだした血がティアナの左腕を伝い落ちて、彼女のマントをどす黒く汚した。
悪態をつく。自分が知っているありとあらゆる神を呪い、悪魔をののしる。
ティアナを引きあげ、縄梯子につかまらせる。どうにかふたりとも海に落ちずにすんだ。
桟橋に置いてけ堀になった三人の男たちが怒りの声を張りあげている。どうやら弓矢といった飛び道具は持っていないらしい。手も足も出ず、地団駄を踏んでいる。実にいい気味だった。
頭上から話し声がする。見上げた。船縁から、ダンよりも年下の少年がのぞきこんでいる。縄梯子にぶらさがるふたりを目にしてポカンと口を開けていた。少年の隣に、上唇に髭をたくわえた初老の男が並んだ。たちまち、顔が真っ赤になる。
「おまえたち、そんなところでなにをしてるんだ!」
「頼む、この船に乗せてくれ!」
「……なんだと?」
「ちゃんとカネは払う。おれたちをここから引きあげてくれないか!」
男は眉根を寄せて思案げに顎をなでていたが、肩越しに振り返り、「梯子を上げろ!」と鋭く命じた。
屈強な船員数人が縄梯子に取りつく。威勢のよい掛け声とともに縄梯子が甲板に引きあげられた。船員に手を貸してもらって、ふたりで甲板に立つ。ようやく人心地がつくと、とたんにいままで意識の奥底に追いやっていた全身の痛みがぶり返してきた。
ものすごく痛い。息をするだけで脇腹がズキズキと痛む。肋骨が折れているかもしれない。右の太腿の傷はたいしたことないが、腕の傷は思いのほか深かった。出血も多く、まだ完全に血が止まっていない。
「ダン……ごめんなさい、わたしのために……」
ティアナは口許にこぶしを押し当て、いまにも泣きそうな顔をしている。ダンは痛みを押しのけ、いびつな笑みを浮かべる。
「あんたを守るのがおれの仕事だ……と、言いたいところだが、結局、あんたに助けられちまったな」
ティアナが無事だったのはよかったが、護衛としての責務を完全に果たせなかった不本意な結果が自分でも情けなく、どうにも悔しかった。が、まだこうして生きている。いまは素直にそれを喜ぶべきだろう。ダンは笑みを消し、有無を言わせない強い語調で伝えた。
「いいな、このことはあとでちゃんと説明してもらうからな」
ティアナはなにも答えなかった。複雑な表情をしている。焦り、迷い、ためらい、おそれ、罪悪感──そのどれにでもあてはまりそうな顔つきだ。
「こいつは手当てが必要だな……」
ダンの腕の傷の具合を確かめた髭の男が、近くにいた若い船員に声をかける。
「おい、そこのおまえ。ザッカス先生を呼んでこい。この時間帯ならまだシラフのはずだ」
「了解しました!」
命じられた船員が甲板を走り去っていく。
「この船には医者が乗ってるのか?」
「ああ。いつも酒ばかり呑んでいるがね。あれでも腕は確かなほうだ。ここで自己紹介をしておこうか。おれはこの船の船長のレガンプだ」
レガンプと名乗った髭の男は、ダンとティアナを等分に見つめて、
「で、あんたらは?」
ダンとティアナはそれぞれ自分の名前を告げた。レガンプがティアナの顔を興味深げにしげしげと観察する。ティアナは船長の舐めまわすような眼差しに無言で耐えていた。
「失礼、お嬢さんとは以前、どこかでお会いしたことがあったかな?」
レガンプがいぶかしげに目を細める。ティアナは首を横に振った。
「いいえ、船長。お会いするのは初めてです」
「そうかな。お嬢さんの顔を知ってるような気がするんだけどね……まあ、いいだろう。あんたら、どうしてあんなところにいたんだ?」
「強盗から逃げていたんです」
ティアナが答える。倉庫街での襲撃をかいつまんで語った。事実をそのままではなく、ある程度脚色を交えて話している。ダンは六人の強盗をひとりで追い払ったことになっていた。
ダンはずっと口をつぐんでいた。下手に口を開くと、ティアナとつじつまの合わないことを言ってしまう可能性があった。
「そうか。そいつは災難だったな。昔に比べればあの町も治安が悪くなったもんだ」
という言葉とは裏腹に、レガンプは納得していないみたいだった。探るような目つきでティアナの顔色をうかがっている。ティアナはにっこりと微笑み、別の話題を持ちだした。
「レガンプ船長、教えてもらいたいのですが、この船はどこへ向かってるんですか?」
「この船の行き先は〈満月の城塞〉だよ」
ティアナは大きく目を見開いた。内心、ひどく動揺したのだろう、次のセリフを口にするときは声がかすかに震えていた。
「……途中でどこかの港に寄る予定はありますか?」
「いや、いまのところないね」
「お願いです、おカネは払いますから、わたしたちを近くの港に降ろしてください!」
「そうした交渉はあとでしようか。あんたらの乗船料も含めてな。悪いが、こいつは高くつくぞ」
禿頭(とくとう)で猫背の老人が、甲板をこちらに向かってとぼとぼと歩いてくる。レガンプが老人を手招きする。老人は長く伸びた白い眉をひそめ、気乗りしない様子で近づいてきた。老人とティアナの視線が一瞬、交錯する。老人はハッとして立ち止まり、口をモゴモゴと動かした。