【短編集】人魚の島
電車
ドアが閉まる寸前の電車に飛び乗る。
なんとか間に合った。俺はネクタイを緩めて吐息をつく。
電車がのっそりと動きだした。
車内を見回して、気づく。
誰も乗っていない。乗客は俺だけだ。
朝のこの時間帯だったら、俺みたいな出勤途中のサラリーマンや学生などで車内は混雑しているはずなのだが、左右どちらを見渡しても無人の座席が続いている。連結部の窓の向こうに見える隣の車両にも人影は見えない。
カバンを抱えて座席の端に腰かけ、ひとり首をひねる。悠々と座れるのはうれしいが、なんだか様子がヘンだ。
……どうして誰もいない?
回送電車に乗ってしまったとか? でも、回送電車だったら駅に停車しないだろうし、たとえ停車しても乗客がまちがえて乗ったら困るからドアだって開かないはずだ。
ドアの上の電光掲示板に目を向ける。行き先は──
「……は?」
日本語でもアルファベットでもない、ミミズがからまったような奇妙な文字列が右から左へ流れている。故障してるのか?
それにしても、無人の電車、というのがひじょうに気になった。いつもならスマホすら持っていられないほどギュウギュウに混雑しているのだが……
がらんとした車内のあちこちをながめていたら、別のことに気づいた。広告がいっさいないのだ。中吊り広告も、内壁に貼られた広告もない。
気味が悪くなってきた。三駅しか乗らないが、次の駅で降りようと決める。
電車が次の駅のホームにすべりこむ。ドアが開く。ホームには十数人が列をつくっていたが、誰も乗ってこようとしない。
降りようとしてドアへ向かい──
目に見えない壁のようなものに押し戻されて、ぶざまに尻餅をついた。
「なっ?」
立ちあがり、もう一度ドアへ向かう。結果は同じだ。空気のかたまりのようなものがドアの前をふさいでいる。渾身の力をこめて押してみたが、びくともしない。そうこうするうちにドアが閉まってしまった。電車が走りだす。
「……クソッ!」
わけがわからん。今度は別のドアを試してみようと思い、座席を移動する。
イライラしながら次の駅に到着するのを待つ。駅と駅とのあいだの所要時間は二分ぐらいだが、それが何倍にも感じられる。
ようやく駅に着いた。ドアが開く。俺はダッシュする。またもや空気の分厚い壁が俺をはね返す。
急いで次のドアへ駆け寄る。が、ここにも目に見えない空気の壁が立ちはだかっていた。
「なんなんだよ、これはっ!」
ジタバタと手足を振ってもがいていたら無情にもドアが閉まった。電車が加速する。
思いつくかぎりの悪態を吐き散らす。座席に腰を落とし、頭をかきむしる。
なにがなんだかさっぱりわからんが、電車に閉じこめられてしまった。しかもあいかわらず乗客は俺だけだ。誰も乗ってこない。
「ふざけやがって!」
車掌に文句を言ってやる! そう決心して、最後尾の車両を目指す。連結部を通り抜けて、隣の車両へ乗り移った。思ったとおり、ここも無人だ。次の車両も、その次の車両も乗客の姿はない。
最後尾の車両にたどり着いた。やはり車内にはひとっ子ひとりいない。
車掌室をのぞきこみ、愕然とする。
車掌室に乗務員の姿はなかった。
どういうことだ? まさか、ワンマン電車なのか?
俺は歯ぎしりする。駆け足でいま来たルートを逆にたどり、今度は先頭車両へ向かう。移動の途中でいつも乗り換えている駅に停車したが、やっぱり空気の壁が邪魔して外へ出られない。
やっとのことで先頭車両に着いた。運転席が見える。
怒鳴りつけてやろうと近寄ってみたら──
運転席には誰もいなかった。
膝から力が抜けた。その場にへたりこむ。
この電車は完全な無人だ。運転手も車掌も乗客もいない。いるのは俺だけ。
都心には無人で運行する電車もあるにはあるが、俺が利用している電車が無人化されたなんて話は聞いたことがない。考えれば考えるほど、背筋が寒くなってきた。
この電車は普通じゃない! 俺はとんでもないことに巻きこまれてる!
電車が四つ目の駅に停車する。ドアが開く。空気の壁に全身を押しつけ、ホームに並んでいる客に向かって叫ぶ。
「誰か! 助けてください! 電車から降りられないんです!」
だが、どんなに大声でわめいても、誰も見向きしないし、駅員もまったく気づかない。さらにふたつの駅で助けを求めてみたが、全部徒労に終わった。
俺はあきらめ、座席にぐったりと身体を沈める。このまま終点まで乗っているしかなさそうだ。終点まで行けばこの電車から降りられるはず──いまはそう信じよう。
苦痛に満ちた長い時間が過ぎていき、ようやく終点の駅に着いた。ドアが開く。
ゴクリと唾を飲みくだす。ドアに向かって、一歩一歩前へ進む。
空気の壁が俺の前進をはばむ。押した力と同じ強さの力で押し返される。助走をつけ、空気の壁に肩口からタックルする。あっさりと弾かれ、床をゴロゴロと転がる。
「このっ!」
何度もタックルを繰り返す。そのたびに空気の壁が容赦なく俺を突き飛ばす。
息切れがする。汗が目に流れこんでくる。俺はうなる。もう一回、突撃しようと身構えたところで、俺をせせら笑うかのようにドアが閉じられた。
顔面から血の気が引くのをまざまざと感じた。めまいを覚えて、近くの棒につかまる。
乱れた息を整えていると、電車が動きだしてホームを離れていく。それも折り返し運転ではなく、いままでと同じ方向に向かって走っている。
「え?」
俺はあっけにとられる。車窓の外の景色に目をやる。街の風景が虹色に輝く光に呑みこまれた。まるでトンネルのなかを走っているような感じだ。さまざまな色彩の渦が窓の外を流れていく。
「……どこを走ってるんだ?」
俺の疑問に答えてくれる人間はいない。
ため息をつく。もうこうなったら、あがいたところでどうにもならない。なるようにしかならないだろう。
靴を脱いで誰もいない座席に横たわり、天井を見上げる。どこから電力を供給しているのか皆目見当もつかないが、蛍光灯は消えることなく、あたりを白々と照らしている。スマホは使えるのだろうかと、ふと気になり、カバンから取りだす。予想していたとおり、画面の表示は圏外になっていた。
なにもすることがなく、ただ横になってじっとしていた。
会社は完全に遅刻だが、もはやどうでもよかった。これからどうなるのだろうと思うと胃がムカムカしてくる。なるべく楽しい想像をしようと努力してみるが、胸を圧迫する恐怖と不安はどうしてもぬぐえない。
そんな状態がかれこれ十分近くも続いただろうか。身体にかかる力で電車が減速するのがわかった。
いきなり、外の景色が変化する。どうやら光のトンネルを抜けたらしい。
上半身を起こし、窓から外を観察する。
「……なんだ、ここ?」
電車は黄色い花が一面に咲く野原のなかを走っていた。どこにも建物は見当たらない。遠くに高い山の連なりが青くかすんでいる。
さらに電車のスピードが落ちる。
野原の真ん中に、まるで絶海の孤島のようにぽっこりと突きでた石造のホームが見えた。ホームにはたくさんのひとがいる。
俺は眉をひそめる。見慣れない格好をした人々だった。